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わたしの不在にさよならを

生き方は、出会い頭に突きつけられる


自分の人生、最終的になんとかするのは親でもパートナーでも子でも友人でも、ましてやスーパーなヒーローでもない。
自分自身の『世界の捉え方』を知り、選んでいくことなのだ
と、つくづく感じるこの頃です。

死後、他者がその人の人生を酷評しようとも、称賛しようとも『良い人生』だったかどうかは “自身がどう感じたか” が全てなのではないか。他者への影響力や社会への貢献度はまた別の話なので割愛。

このままぼーっと生きてて良いのか。
人は何かを成さねばならぬのだろうか。
日々の忙しさにかまけて、たいせつなことを見逃しているのではないか。
ふと『わたしこれで大丈夫…?』と怖くなる瞬間。
さて、あなたはどう生きるの?と突きつけられる瞬間。
それは否応なしにやってくる。
意識していない時にこそ、出会い頭の事故のように。


若さという魔法で誤魔化せる季節は過ぎ去った。
年齢はただの数字だから関係ないともいうけれど、実際は『ある程度の指標になる数字』だと感じている。
その数字から目を背けずにしっかり感じ、考え、選び、選んだからには困難も含めて自らたのしむ方へ飛び込んでいきたいと考えるようになった。
(様々な経験を一括りに“たのしむ”としています)
その積み重ねこそが私をつくり、財産となる。
痛みや悔しさ。乗り越えたこと、乗り越えられなかったこと。
その彩が豊かになれば、子や、大切な人に寄り添うこともできるかもしれない。

何かが勝手に変わるのを期待していた。
誰かが手を差し伸べてくれるのを待っていた。
そんなふうに向こうから好機がやってくるのを待たなくていいことを、恥ずかしながらわりと最近気づいた。
選ばれることに注力し、選ぶことには無頓着で、無自覚だったことにも。

無論、現実には選べない選択肢の方が多い。
多様性や男女平等の名の下では選択肢は無限かのように錯覚するが、実際はそうでもない。その場合は、選べない現実を受け入れる。この世界線で、私という個体を活かしてできる限られたことで、SNSで見た『誰かの』ではない『わたしの人生』を愉しむ。
そういうようなこと。

drawing by 粉茶

現在 / わたし / 生きている
— 確かだ。

人生 / 見渡してもゴールは見えない / この先も続くという保証はない
— 不確かだ。

確かなのは「今、この瞬間」

それを実感できないのならば
わたしは私の人生に不在なのだ。

確かな瞬間が連続していく—
それが人生なのだとすれば。

じぶんを知ること


「自分軸を持て」「自分の人生を生きよう」
そんな言葉をよく耳にする。

人からの評価は気にせず好きなことだけをして自由に生き
そしてそれを選べる環境にいる選ばれし人。
という、自分とは隔たりのある人物像をなんとなく思い浮かべていた。
けれど、どうやらそういうことでもないのかもしれない、と気が付いた。


— 遡る。

わたしは「自分の人生を生きている実感」というものが薄く、うっすらとした膜が張っているようでぼんやりとしんどかった。
そこに目を向けなければ、ぼんやりと幸せ。恵まれている、とも思う。
しかし普段は現れないその膜は、ある一定の領域を出ようとするたびに顔を出す。
正直、いまも気を抜くと呑まれそうになることもある。
ただ、苦しさの原因を自覚できたことが幸いだ。

(今思えば)勝手に我慢しているのは自分なのに「我慢させられている」と感じ、怨みや嫉みのような感情を抱いてしまうこともある。
我慢したところで上手に消化できるはずもなく、感情のままに爆発し、それによって自己評価は下がる一方。最悪だ。

何故、こうもしんどいのか。
当時はうまく言語化できなくてわからなかったけれど、無意識の奥の奥で「どうせ自分が選べるものには限りがある」と諦めていたから。
自分には選ぶ権利も、そこまでの価値も能力もない弱者。
そういう認識だった。
(生きていて良いとは思っていたがそれ以上でも以下でもない)

「なにを選んでも良いよ」と言われ
「これがいい」と言うと
「それよりこっちの方がいいよ」と言われ結局選べなかった、記憶。

それでも主張して選べばよかったのに、と今は思う。
選ばなかったのは自分だけど、選べなかった。
大人になった今「こっちの方がいいよ」は純粋に人生経験からくる「良かれと思って」であること、なんの気なしに発したただの感想であった可能性、私の思い通りには選ばせ辛い現実的な事情、大人も完璧ではないただの人間である、等々のことから、そこに悪気や否定の意などひとつもなかったと容易に想像できる。

けれどそうやって自分が無意識に選んできた「諦め癖」や「受け身でいた方が相手にも自分にも都合が良い」「否定された」「どうせうまくやれない」という認知の歪みに、なかなか長いこと気づけずにいたように思う。

望んで期待したものを剥奪されるくらいなら、相手が望むものを選び、喜んでもらった方が楽だ。高望みさえしなければ頑張らなくて良いじゃん、と本当は自分が楽をしたかったのかもしれない。周囲からも承認が得られるものを選んでいけば無駄に傷つかず、責任も負わずに済む(そんなわけはないけれど)

そこにいるのは楽だけど、なぜかずっと苦しくて、不満。
なのにこの薄い膜を突破するエネルギーも自信もなく、どこか後ろめたい。

なぜ?

自分で自分を見限っているから。

そこには『わたし』が不在だからに他ならない。

とはいえ。

幸か不幸か、私の弱点であり強みでもあるADHD的な性質から、本当にしたくないことはできないし、心底苦手なことはできないわけです。
それゆえに人の期待に完璧に添える器用さはないし詰めが甘く適当でめんどくさがり。あまつさえ無責任で卑屈でださい。きゃー!話も脱線する(今まさにそれ)

そしてその逆、本当にやりたいことは、たとえやるべき時ではなくてもやってしまう。やらない方が良いとわかっていても、やってしまう。
その世界に逃げ込むように夢中になって、のめり込む。

『夢中になってできることと、できないことがとても明確』
そう考えるとこの厄介な自分の性質には、翻弄されつつも救われてきた。
夢中になれる瞬間のおかげで、捻れた自我からも、他者の眼からも解放されていた。苦しさも悦びもすべて昇華されていく。
コントロールは不能だけど、奥の方にいるわたしはその瞬間を悦び、だからこそ強烈に惹かれていたのかもしれない。

刹那的な感情を、
長期的な願望を、
しあわせの価値基準を、
歪みなく自覚したい。

良い悪いや他者からの評価や優劣でジャッジせず、
自分の等身大の物差しで、自分の望む方へ、自らの手で導けたなら。

これまで何かをつくることで、言葉以外の自分なりの手段で消化し
形を変えて吐き出しつづけてきたのかもしれない。
それは間違っていないしこれからもわたしには必要なことだろう。

ただ『表現』だけではなく『人生』にフォーカスした時、もう少し確かな自信をもって、自分の責任で進んでみたい。そう思う。

高みを目指すとか、何かを成すとか、そういう話ではない。
むしろそこから解放されるために、ちいさくて等身大の自分の人生を、胸を張って誇りたい。
どんな環境でも、できることが限られていたとしても、そこで精一杯踏ん張って輝いて楽しめるひとでありたい。

人と生きること

こと人間関係となると、まだ我慢癖はあるし、自分の本心には鈍感なふりをして『相手が喜ぶこと』や『その場を穏便に』を優先してうやむやにしがちである。

人を喜ばせたり、はっきり言わないこと自体が悪いのではない。
わたしは、相手への思いやりや気遣いや喜んでもらおうという気持ちは
「こんなんなんぼあっても良いですからね(ミルクボーイ)」
と思っているしむしろそういう人でありたい、全然まだまだだけど。

では、何がいけないかというと
自分を置き去りにした“無自覚な” 我慢だと思う。

例えば、家族がいて子供がいると、女性であっても男性であっても行動の選択肢が狭まることもたくさんある。
我慢は、無自覚なまま積もっていくと、ともすれば被害者意識に転じてしまう。実際社会的に強い・弱い立場というものが存在しているので、それと区別して考えるのは意識しておかないとかなり難しい。
けれど『今はこういう時期だから仕方がない、だがそもそも家族を作るのは自分が選んだことだった、それは喜びでもあったな』と思い出すことができれば、決して環境や、相手だけのせいにしたりせずに済む。
不満ではなく、具体的にして欲しいことを伝えたり、感情に振り回されず建設的に話し合うこともできる。相手がそれに応じてくれるかは別問題だが、やれることをやってダメならそれまで、と踏ん切りもつく。
(わたしはめちゃくちゃ感情に振り回されやすいから、これは願望を書いています(笑) 伝えるのって、ほんとーーーーにむずかしいし苦手 )

自分も相手も責めたくない


言う。言わない。
我慢する。しない。
相手のせいにする。しない。
自分のせいにする。しない。

悩みつづけても答えが出ない選択肢は、常に目の前に立ちはだかっている。
そもそも正解などない。「悩み続けて答えは出さない」と言うことも含めその全てを自分が選択しているのだ、と思えたなら。

「我慢したくないけど、我慢してしまっている」状態に気付き認識できたなら、
力が入りすぎていたところをちょっとゆるめてみたり、じゃあどうしよう?と考えることができる。自分なりに納得がいけば、たとえ状況は変わらずともそれはただの我慢ではなくなるのでは。

自分だけでは解決しづらいからこそ「悩みのほとんどは人間関係だ」と言われる。
どうしようもないことはある。
完璧にわかり合うなんて、血縁関係があってもなくても無理だと思う。
それでも受け取り方は選べるし、相手の中に見た、問題と感じることの答えは自分の中にある。これは救いでもある。
自分が未熟すぎて、これを書いている今も(うわああ!で、できてないわ、偉そうに!)と恥ずかしいけど…自分の現在地を正しく知ることが大切で、どこに居るかが問題ではないから、OK(笑)

drawing by 粉茶

ひとりでもできること

  • 自分の反射的な感情と本当の気持ちを自覚し、区別する

  • 我慢や負担と感じるなら思い切ってやめてみる

  • 相手の状況、感情、自分との違いを理解しようと努力する
    むやみに傷つけない

  • 諦めないでなるべく伝える努力はする、あるいは諦めて距離を取る選択をする

  • 私もあなたも人間だから完璧などあり得ないので、白黒つけようとしない

  • 最終的には「お互い様」「まいっか」の精神で


コツコツ向き合ったり、距離をとってみたり、
疲れたら「ま、いっか」と力を抜いてみたり。
相手に求める前に、まずは自分の気持ちをちゃんと自分で見て、撫でてあげる。その上でなら、相手には伝えても伝えなくても大丈夫、と思える気がする。

『自分を大事にする』『自分軸を持つ』ってそう言うことなのかも。

まだまだ難しい。
でもいつかできるようになりたいと思う。
きっと、少しずつは前に進んでいるはずだ。上等上等。

そう、こうやってひとつひとつ言葉にしていくとふしぎと『 わたしたぶん大丈夫 』な気がしてくる。
ありがたい。まだ頑張れそうです。

ただ、私はこれを、きっとす〜〜〜〜〜〜〜〜ぐ忘れる。
どうせ感情にのまれ、す〜〜〜〜〜〜〜〜ぐ忘れて弱音を吐く。
なので、忘れたらまた思い出したいなぁ、と思ってnoteに残してみたのでした。

おしまい。

さいごに念のため


この文章は全て私の主観で、私のことを書いています。
もちろん人それぞれなので条件が違えば、親のせい、環境のせい、なことも沢山あると思います。そしてさまざまな事情で抜け出すのが困難な状況も沢山あると思います。
それを気の持ちようだ、それを自分で選んでるのだ、と言いたいわけでは決してありません。ご理解いただけると嬉しいです。
そしてここに書いてあることは私が目指すところであり
現状できているわけではありません笑、なのでこれからもがんばります。
長文お付き合いありがとうございました。

粉茶

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