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わたしと 「すき」

はじめては自己紹介。
こういうところが我凡人ナリとおもうけれど、セオリーには一応倣っておくタイプの保守的な人間です🍵
粉茶です💐

私の現在の状況を簡単に説明するならば、育児と仕事の傍ら趣味で絵や音楽をしたりしなかったりしている人、です。

今回は「すき」を軸に、私についてつらつらと書いてみようと思います。

(⚠️長いのでお暇な時に…)


わたしの 「すき」

寝る、食べる、うたう、絵を描く、手帳とペンとiPadと本を持ってカフェにいる時間、台風の夜に弾くクラシックギター、暑い日に飲むレモネード、インクと万年筆とガラスペン、朝のレースカーテン越しの光、夕焼け色に染まる街、影のかたちを眺めること(無意識にいつも目で追いかけています)、焚き火、出かけなくて良い日の雨の音、長電話、新聞屋さんのカブの音、キャス主がコンビニで買い物してる音を聞くこと、少し鼻にかかった低い声、露天風呂、お風呂上がりのコーヒー牛乳@お風呂屋さん、薄い皮の小ぶりなみかん、新しいノート、実家の籐でできたロッキンチェア、車の窓で行われる雨粒レース、ワイパーとウィンカーの音、二度寝、なにもせずにだらだら過ごす休日、いきあたりばったりの小旅行、便利な家電、古い家具や古道具、民芸品、陶器市、窯元巡り、日本庭園でいただくお茶と和菓子、お祭りや中華街での食べ歩き、楽器屋さん、水族館、夜の商店街、手を繋いでおさんぽ、映画サウンド・オブ・ミュージック(My Favorite Things!)、「西の魔女が死んだ」のおばあちゃん、植物や動物の名前に詳しい人、菅原小春さんの踊り、刺繍の施された布小物、ニットのセーター、クリスマスの飾りを選ぶこと、可愛い切手、こどものほっぺた、こどもたちとむぎゅむぎゅすること、あくびがうつって笑い合う瞬間、すきな人とお話をしているとき

e t c …


「すき」と言っていいのはどこからか

「すきに資格はいらない」というような言葉をどこかで見聞きしたような気がします。(どこだろう?)

Q. とはいえ、特段何かに詳しいわけではない私が「すき」と軽率に言っていいのでしょうか。

A. はい。

《  完  》

とはいえとはいえうるさいですが、とはいえなんです…。
「すき」を対外的に発表することには怖さも付き纏いませんか?

わたしは悪い意味で“おたく気質ではない”ことがコンプレックスでした。
何かひとつを突き詰め続ける職人さん、思考を深く深く掘り下げて行ける方、〇〇オタと呼ばれる方、自分にとっては苦手分野なのでとても尊敬しています。そして自分の好きなものについてきらきらと熱く語る方の熱量にいつも憧れや羨ましさのような感情をいだきます。眩しい……。

私はというと、体系づけて考えるのが得意ではないし、気に入った一曲だけを延々リピートしがち(そしてふっと満足して飽きる)、誰かのファンになったことはあるけれど物理的な追っかけになったことはない、世間の出来事に無頓着、なんとなく分かれば満足してしまうため研究等には向いていない…

ええと……ぐっと自分下げを堪えて良い方へ捉えれば、「すき」だけで充分満ち足り、その世界にひとりで浸っている時間そのものが好きなのです…。完全なる感覚派ってやつです。

こういうことを書くのは自分の思慮の浅さや学のなさを露呈する様で恥ずかしいけれど、ぺらぺらの見栄を張っても仕方ない。ないものはない。張りぼては見る人が見ればすぐにばれます。
それでも創作の世界においては、言語や理論だけに頼らず感覚的に素敵な張りぼてをかたどっていくことは、楽しさの醍醐味のような気がします。
「※ここは現実世界のようですがファンタジー」という共通認識があった上での世界は、良い。創作と空想の中では誰もが自由である(拍手喝采)
……話が逸れまくるのは常です戻ります。

要は、じぶんのなかに「すき」のカケラたちは確かにあれど、人様に披露するほどでもない、と気が引けてしまうのです。ひとり遊びが好きな子が、人の目に晒されると途端に自信がなくなるやつ。

そんな私でもここ数年で少しずつ変化しているようで、「すき」と思う心はそのまま認めて大切にしたいな と じんわり思えるようになってきました。
人と比べなくたって、たとえ浅くたってもいいじゃないか〜。ネガティヴ人間なのでどうしても比べてしまって落ち込む時はありますが、体感を伴った「わたしはこれでいい」という実感を積み重ねていけばいいのかなと思います。


ことばで共有することへの苦手意識

記憶の糸を辿っていけば、わたしは幼い頃「空想癖のつよい注意力散漫で気分屋なこども」でした。そして自分の世界に入った時は過集中。「敏感で感受性が強い子」と言われがちなタイプ。

私には2つ歳上の「しっかり者で真面目で几帳面で要領が良く大人の期待に応えられる姉(当社比)」(+どマイペースな弟)が居ます。

なんともわかりやすい姉との対比により“私にはできないことが人より多いんだ”という自覚は早々に、ぼんやりとありました。きょうだいコンプレックス、歳が近いとあるあるだと思うなぁ…

実際に当然のごとく私(と弟)ばかり怒られていたのですが、怒られても頑なにこだわりを曲げられないわ、いちど気持ちが捩れるとなかなか戻せないわ、不登校になるわで、おそらく3人のなかでは一番手のかかる子でした。(親になってみてなおさら思う…母よありがとう…涙)

そんなコンプレックスも手伝ってか、本当にすきなものは自分の奥にしまい込み、共有しないタイプの子供でした。
もっと正確に言うと、人に見せる用の「すき」と、完全に人には見せない「すき」がありました。後者をその人の基準で評価されるのが嫌だったし「これがなぜすきか」を言葉で説明させられることは本当に苦痛でした。

今思うと、自分の中に留めておけば言語化せずともその純粋な輝きのままを眺めていられたのだと思います。
言葉にして誰かに見せた途端、輝きを失い、その辺によくある石ころと同じような扱いを受けてしまう堪え難さ。
それに加えて『この素晴らしさを人と共有したい!』という熱量もなければ、魅力を伝えきるほどの言語能力も持ち合わせていませんでした。
(感覚で賄ってしまいたい/言語化が苦手/というのは私の人生において常々大きな課題となりました)

それでも。
人には見せない「すき」があって良いと思っています。完璧に理解し合うのは到底不可能だから、すべてをオープンマインドに見せる必要はないし、むしろそういう秘めたるものが私にとっては大切なのかもしれない。ひょっとすると言葉にしないまま取っておくことも表現においては良い方に働くこともあるかもしれません。

ただ、「この人になら見せても大丈夫かもしれない。この人には見てほしい」と思える信頼できる方、共鳴できる相手と出会えたとき。
なるべくならばより多く伝わる表現の術を持っているとちょっといいなと思ったりもします。


それでも、ひとと深くつながりたいよ〜〜〜って人✋(私)

「すき」にはいろんなグラデーションが存在していて、それに限らず全てのものにはグラデーションがあり、ちょうどぴったりこの言葉、ちょうどこのカテゴリー、なんてものは滅多になく。
いまはそれでOKとおもえますが、思春期の頃はぴったりの表現ができないことが  “無理” すぎて、自分自身の核となる部分は言葉にあてはめたくなかったし、ネガティブな感情の説明も人にうまくできませんでした。…そのせいでだいぶ拗らせました。

当時は自分を客観視するための手がかりがなさすぎたし、若さ故の視野の狭さや思い込みの強さもあったのかも。ただ自分を直視するのが怖くて逃げていたようにも感じます…。思春期あるある…?

どうしようもなさ、消化しきれないものや「秘めたるすき」を、日記を書いたりコラージュをしたり絵を描くことなどにひたすらぶつけていました。
もはや「すき」というよりは「生きる術」であり「安全地帯への逃避」でありセラピーのような役割を担っていたように思います。本気で「自分の脳内に住めたらいいのに」と思っていました。

外面的には「普通の子」⇄ 内面の深層では「狼に育てられた少女」のような、非言語のままのものが渦巻くカオス状態だった(大袈裟)わたくし。

変わってゆくきっかけは、そこから引っ張り上げてくれた人との出会い。
関係を築いていく中で、これまで見ないで済んでいた鏡を否応なく見せられ、そこに映る拗ねて縮こまっている幼いままの自分。それに気づいた時ようやく「誤解を恐れずに丁寧に言葉にして伝えていくこと」と向き合わざるを得なくなるのでした。さもないと、そばにいる大切な人を、傷つけたくないのに傷つけてしまう負のループから脱せないから。

その作業はなかなか大掛かりなもので、自分が大切に護ってきた聖域がバラバラに解体され、その中にいた丸裸の私の皮膚をさらに一枚一枚剥いでいくような感覚。
痛く苦しく、防衛反応が発動して攻撃してしまうその度に自己嫌悪で何度も殻に篭りたくなりましたが、当時は根気強く付き合ってもらいました。感謝…

…そんなこんなですったもんだあり(急に雑)少しずつ身につけた「気持ちや感覚を俯瞰で見て言葉につないでいく方法」は、他者や社会との大切な架け橋となってくれました。
こんなにも昔と比べて生きやすくなるなら大人になるのも捨てたもんじゃないです🍵
まだまだ人と比べてしまえばできないことは多いのですが…過去の自分と比べると成長したねぇ、と褒めたいです。

そしていま、音楽を通じてお互いの「すき」を安心して見せ、認め合うことのできる友人がいる…本当にありがたくしあわせな環境です。
人生色々ありますし元々波のある性質ゆえに、無気力で光の見えない時期も長らくあったので、これからが楽しみになってきたこと、今を楽しめることが何より嬉しい。
本当に常々周りの人に助けられて今の私があり、おかげさまでたのしく生きられているなぁと感謝の日々です。


おわり!

それにしても長い。長いがすぎる〜!
軽く自己紹介のつもりでしたがうっかり色々溢れてしまいました…。

私はこんなに辛かったんだよ感が出てたら嫌だなぁと思うのですが、そう感じてしまったらすみません…そうではなく。
私は恵まれた環境でずっと生きてきたものの、自分の特性や性質に気づけたのがとても遅かった。
人それぞれに人生色々障壁や課題があって、環境を比べてしまうと私は全然大したことないし、辛いことがあったとしても誰でもそんなもんだよねとも思います。ただ、その時々で感じていた自分の感情は否定せずに認めてあげたい(願望)
そういうことの積み重ねで、「すき」をもっと素直に楽しみ他の人とシェアできるようになっていくのかもしれないなどと。
とりとめがなくなってしまいましたが
わたしの「すき」にまつわる一部分と、私個人のとても偏った世界のおはなしでした。

🍵

ここまでの長駄文にお付き合いくださった方…さてはあなた…
忍耐強く心優しきお方ですね😌
すきです!!
心からありがとう。

2021.12.15    粉茶




noteでは「ことばで伝わりやすく表現する」練習の場として、または詩のようなものの置き場所として、ささやかな日常のメモとして、気が向いた時に投稿できたらと思っています。マイペースに🍵

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