【第238回】『CURE』(黒沢清/1997)

 『勝手にしやがれ!!』シリーズの後、『復讐』シリーズの2と3の間に、ツインズから大映出資で1本映画を撮らないかという提案が黒沢に舞い込む。内訳は単純明快である。『勝手にしやがれ!!』シリーズも『復讐』シリーズも、Vシネマでは制作費も制作日数も2本で映画1本分に相当するバジェットだった。この大映出資の映画の予算や制作日数は、単純にVシネマ1本の倍の容量で映画を撮らないかという話だった。この企画のために黒沢は新たに『復讐』シリーズとは違うシナプシスを書き上げたが、その草案に大映は難色を示した。けれどツインズはせっかくの映画の企画で、枠も抑えているからと代替案を求める。そこで黒沢が急遽提示したのが『CURE』のシナリオだった。

もともと黒沢の中で『CURE』の草案は、『カリスマ』のシナリオ同様に、90年代初頭から既に温めていた企画だった。それこそ末期のディレクターズ・カンパニー内の企画会議ではいつも『CURE』と『カリスマ』の2本の草案をプレゼンしていたが、結果は散々だった。90年代初頭の時代の空気には『CURE』の企画はあまりにも早過ぎたのである。しかしながら、95年に当時のオウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こし、カルト宗教の名が一躍世間に知れ渡ったことで、『CURE』の映画化の機運は高まっていた。大映はこの草案にあっさり許可を出し、かくして1ヶ月に渡る撮影は始まった。裏方スタッフはほとんどVシネマの『復讐』シリーズと同じ面子を起用し、主人公となる刑事には役所広司を起用することになる。

これは私の勝手な推測になるが、今作の誕生の裏には『地獄の警備員』撮影時の苦い体験が生かされている気がする。1992年の『地獄の警備員』という映画は、ビルの警備員が殺人鬼に変身する恐怖を描いたホラー映画だったが、その撮影も終盤に入った頃、黒沢は何の気なしにある1本の映画を目にすることになる。それはジョナサン・デミの『羊たちの沈黙』である。当時、トビー・フーパーの熱心な信奉者であった黒沢が、『羊たちの沈黙』を観た時の衝撃は推して知るべしである。松重豊扮する富士丸がクライマックス付近で語るニーチェの言葉は、明らかにこの『羊たちの沈黙』の影響をもろに受け、幾分混乱している。彼は元力士で身体は強いが、頭は強くないはずが、強引に知性派に仕立てられている。自信満々に真っ当なホラー映画を作ったはずが、アメリカでは既に猟奇殺人ブームが真っ当なホラーを駆逐する。この時の苦い体験が、後の黒沢映画のホラーに対する見解を180度変えてしまうのである。

それは『CURE』以前の『DOOR3』、『CURE』以後の『回路』を並べると非常にわかりやすい。例えばトビー・フーパーの『悪魔のいけにえ』であれば、レザーフェイス一家の残虐性は確かに怖いし、ぞっとする雰囲気を持っている。しかしながら彼らは生身の人間であり、銃火器があれば倒せる。それはどちらかと言えばホラー映画の文脈の作品でも、『エイリアン』のようなアクション大作に近い。もっと具体的に言うならば、80年代から90年代初頭にかけて、黒沢が模索した『スウィート・ホーム』も『地獄の警備員』も、対象となる敵役はエイリアンやレザーフェイス一家に近いのではないかと黒沢は考察したに違いない。つまり黒沢は、銃や大砲のような武器ではおそらく滅せないであろう肉体を持たない恐怖となる。それは方法論としては感染や伝播であろう。未来永劫滅びることがない魂のような入れ物だけを借りて、ホラー映画の要素をそこに忍ばせていくのである。

冒頭、千葉の海岸沿いの山なりの土地の上に、男がぼっと立っている。小学校の教師を務める男がデッサン途中にこの男の姿を見つけるが、何を聞いても要領を得ない。彼が記憶喪失だと即座に理解した教師は家に招き入れ、あれこれ親切に世話を焼く。これが後の悲劇をもたらすことになる。この頃、同じ関東圏内では被害者の胸をX字型に切り裂くという殺人事件が、秘かに連続していた。犯人もその殺意も明確な個々の事件で、まったく無関係な複数の犯人が、なぜ特異な手口を共通して使い、なぜ犯人たちはそれを認識していないのか?疑問に思った主人公の高部賢一(役所広司)は、友人である心理学者の佐久間真(うじきつよし)と共に事件を捜査する。

冒頭から次々に連鎖する悲劇と相次ぐ犠牲者がとにかく不気味で怖い。間宮は最初、火で彼ら彼女たちを催眠にかけるが、やがて水を使い、内科医でさえも暗示にかけて殺人を犯すことに加担する。けれど実際には間宮は彼らの後ろで糸を引いているわけではない。けれど恐るべき催眠療法の手口が次々に明らかになり、主人公たちまでもが間宮の催眠療法の手口にさらされる。いかにも心理学の応用によるサスペンスであり、高部の取り調べはミステリーを極める。

今作における役所広司の役柄はどんな事件を解決するバイタリティに溢れ、冷静に捜査する頭脳を持ち、フットワークも軽く難事件をいとも簡単に解決してきたキャラクターと言えるが、彼の唯一の弁慶の泣きどころは、妻の心の病である。エリート刑事である役所は、表向きは良い夫婦を演じているものの、家に帰れば、カラの洗濯機を回す妻の鬱病に心を苦しめられている。このことが後々までサスペンスを維持する静かなる起爆装置となるのである。思えばここ何作かにおいて、この夫婦のパワー・バランスのあり方が主人公の精神性に大きな影響を及ぼしていた。『復讐 運命の訪問者』では妻を実家に帰そうと苦心するものの、その計画はすんでのところで敵に見つかり、無残にも妻は殺される。夫の幼少期のトラウマを緩和する存在として、唯一の家族である妻が彼の絶対的信頼であったことは想像に難くない。だからこそ男は刑事を辞めてまで、組織の壊滅へと歩を進めるのである。

役所広司は妻である中川安奈に対し、「ここではないどこか」へ行こうとつぶやく。これまでのエントリで散々述べてきたように、黒沢映画においては、夫はしばしば妻を「ここではないどこか」へ行こうと誘う。最初、妻は好意的に受け止めなかったかのように見えたが、彼女の寝室(夫のは別)のテーブルの上には、沖縄の資料がぎっしり集められているのである。彼女は夫の次の休みにどこかへ行こうという言葉に対して、律儀にも期待している。あの精神科医が言うように、中盤以降は明らかに妻である中川安奈よりも、刑事である役所広司の精神が強引に揺さぶられ、妻以上に均衡を失ってしまっている。それ以上にうじきつよしの狼狽ぶりは尋常ではなく、ゆったりとした感染がやがて陰惨な事件へと結びついていく。そもそも今作における刑事の相棒が刑事ではなく、心理学者というのも実に新鮮である。

中盤、間宮の身元が判明したあたりから、物理的に幽閉された間宮の動きが一旦止められ、どうするのかと思っていたら、黒沢は役所広司に対しても、うじきつよしに対しても、しっかりとした感情の揺さぶりを用意していた。その恐怖の餌食になるのは役所なのか?それともうじきつよしなのか?事件の顛末は是非ともフィルムで確認して頂きたい。中盤以降、あの妙にリアルで怖い最古の映像を観たあたりからは弁証法に終始し、説明的な事態ばかりが提示されるきらいはあるが、だからと言って拳銃や大砲では決して消去しきれない災いが彼らの元に降りかかる。あのエスタブリッシング・ショットを巧妙に挟んだところから、ラストまでの展開はほとんど完璧な心理アクションを展開する。クライマックスの場面で役所広司が拳銃を発砲した場面に明らかなように、物理的に彼の命を奪ったことが、平和にも安全にも世界の救済にも一向につながらないという皮肉はあまりにも重い。

イメージに目を凝らすと、前作『消えない傷痕』や前々作『運命の訪問者』でも明らかになった黒沢の異様なまでの火やライトへの関心が極限まで高まっているのがわかる。『運命の訪問者』での工場の中の松明や『消えない傷痕』のライターの炎、真夜中走る車のミラーライトなど、暖色と言われる色味を積極的に駆使しながら、音や風に加え、色味や色調さえも自らの演出として利用している。大学構内での驚くべきフレームワークの深化も止まる気配がない。

今作は後にフランスで上映され、世界のKUROSAWAにつながる端緒を世界中のシネフィルに植え付けた。90年代Jホラーの代表的な作品に必ずと言っていいほど数えられる作品だが、当時同列に語られることの多かった中田秀夫の『リング』の構造とはあまりにも大きく隔たっている。むしろ『リング』に近いと思われるのは黒沢で言えばこの後の『回路』であろう。今作の価値はおそらく15年後も30年後も揺らぐことがない。この当時の黒沢は明らかに異常な量産体制の只中におり、今作を撮り終えた時は代表作になるという実感もあまりなかったようだが、その圧倒的なクオリティに世界がひれ伏した傑作であり、代表作である。

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