【第460回】『世界から猫が消えたなら』(永井聡/2016)

 急勾配な坂の多い函館の街、主人公・僕(佐藤健)は今日も郵便配達の自転車を走らす。近所の人と話しながら、郵便物を渡すいつもの田舎町ののどかな光景。特定郵便局に戻ると、上司が「お疲れ様」と声をかけてくれる。主人公はこの小さな社会の中で堅実に生きている。家に帰れば愛猫のキャベツが待つ、彼女はいないが静かで平和な暮らし。映画好きな自分にとって、レンタルビデオ店の店長だけが唯一、気兼ねなく話の出来る相手だった。ある日その平和な毎日が音を立てて崩れ落ちる。海岸沿いに自転車を走らせた途中、突然、後頭部に電気のような強い痛みが走る。その瞬間、身体は宙を舞い一回転し、コンクリートに叩きつけられる。病院での診断は脳腫瘍。余命幾ばくもないことを告知された主人公は、この事実を現実として受け止めることが出来ないでいる。まったく予兆もないまま、平和な日常を謳歌していた主人公に、降ってわいたような虫の知らせ。もしも世界から自分が消えたなら、この世界はどう変わるのだろうか?という取り留めのない言葉だけが何度も脳裏をかすめる。

導入部分から、邦画大作らしからぬあまりにも地味で質素な物語展開とショット構成にしばし戸惑う。普通の男のあまりにもありふれた人生、限られた人間との触れ合い、残された時間を逆算する日々、唐突に現れた自分に瓜二つの万能の使い。平凡な男は悪魔と契約を交わし、日々を生き長らえることを決断する。それでも腹の据わらない主人公の前に、訪れるたくさんの戸惑いと迷い。こうして永遠だと信じていた過去の記憶は書き換えられ、現在と未来同様に、過去は姿を変えていく。分断されたショット、闇を帯びた一瞬の暗黒からストリートのざわめきが聞こえ、映画のフォルムは急激にカラフルな色彩を帯びる。初めて彼女と旅したアルゼンチンの喧騒。旧知のバック・パッカーであるトムさん(奥野瑛太)との再会。3人は夜食の席で、それぞれの死生観を話す。予告編にもあったイグアスの世界一大きな滝の流れの前に立った宮崎あおいの絶叫は、まるでウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』のトニー・レオンとシンクロするような、スピリチュアルで圧倒的な強度を誇る。僕の控えめな性格さえも、大らかに包み込むような彼女の強い母性は、とても同い年には見えない。この勝ち気な女の子を演じる宮崎あおいの圧倒的な存在感が今作を彩る。対照的に平凡で癖のない男を演じた佐藤健のストレートな演技選択も功を奏す。

悪魔からの要求は一見すると奇抜だが、そこにはアナログ的世界への郷愁が見て取れる。携帯電話のない時代、自宅にかかってきた間違い電話からの男女の奇妙な交流。フリッツ・ラングの『メトロポリス』を端緒に、電話の仕草をハンド・サインで返す彼女(宮崎あおい)のキュートな笑顔と淡い青春の日々。ミナト座というミニシアターに住み込みとして働き、シネフィルだった昔の彼女は今も古びた映画館の受け付けに立つ。デヴィッド・フィンチャーの『セブン』と岩井俊二の『花とアリス』が2本立て上映される劇場前で、2人は久々に再会する。気まずさよりも、どこかお似合いのカップルを眺めているかのような2人のカフェでの空気感が妙に心地良い。心なしか90年代の岩井俊二を彷彿とさせる透明感と既視感。女は恥ずかしそうに、トイレに行って来ると早口で伝え、そそくさと席を立つ。スマフォも映画もない世界、ホテルの予約さえもインターネットを使えず、足で歩き回るしかなかったあの頃。ミニシアターはいつも賑わい、TSUTAYAに駆逐される前の田舎の良質なセレクトを誇るレンタルビデオ店の品揃え、部屋に飾られたチャップリンの『ライムライト』のポスター、タツヤと話すクストリッツアの『アンダーグラウンド』の一幕。幾つもの哀愁伴う記号的断片が、時代を一歩ずつ後退した在りし日のセゾン文化の面影を伝えるかのようである。極め付けは実家で父親(奥田瑛二)が営む、まるで時間が止まったかのような時計店、母親(原田美枝子)にバツが悪そうに渡した修理済みの懐中時計、海岸で思わず手が震え、シャッターを押すのに躊躇した一眼レフカメラ。路面電車、レトロな郵便ポスト、茶封筒。そういう数々の懐かしい昭和の道具立てに彩られた美しいイメージが、人間の生の面影を確かに残す。映画は生と死の尊厳に彩られる一方で、確かにそこに在ったはずの文化の消失を憂えている。

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