【第290回】『デス・プルーフ in グラインドハウス』(クエンティン・タランティーノ/2007)

 映画は冒頭、一つの車に乗った3人の女たちの他愛もない馬鹿話を延々描写する。それはまるで『レザボア・ドッグス』冒頭の円卓を囲んでの馬鹿話のように、一見何の当たり障りもない会話に見えて、各々のキャラクターを伝える役割も同時に担っている。その会話の内容から、女たちの中にオースティンのラジオ局で一番の人気DJ、ジャングル・ジュリア(シドニー・タミーア・ポワチエ)がいることがわかる。彼女は久しぶりに地元に戻ってきた大学時代の女友達アーリーン(ヴァネッサ・フェルリト)と親友のシャナ(ジョーダン・ラッド)を連れて、田舎町の酒場で派手に遊ぼうと画策するのである。

その後、車はあるバーの前で停まる。そこはグエロスという名の田舎町になる感じの良いBARで、1人また1人と店に吸い込まれるように入っていくが、嫌な視線を感じたのか、女は後ろを振り返る。そこには彼女たちを付けて来た1台の車が停まり、明らかにこちらの様子を伺っている。光の加減なのか何なのか、女の視点からは残念ながら運転手の顔は見えない。この場面を観ていくつかの映画との類似点を見つけるのは容易い。女たちの楽しい時間は、ドライバーによって脅かされている。

グエロス店内で散々馬鹿話をした後、女たちは2件目にテキサス・チリ・パーラーへと足を運ぶ。俳優としてのクエンティン・タランティーノの粋な計らいもあり、話と共に酒も弾み、女たちは徐々にタガが外れ始める。猛烈な雨の中、一服するために外に出たジャングル・ジュリアは、激しい雨の中、停車する一台の車を発見する。それはグエロスで自分たちを見ていたあの車である。ここで男の正体は呆気なく晒されることになる。ドクロマークの付いた不気味なシボレーを乗り回し、顔に傷痕のある謎の中年男は、通称スタントマン・マイク(カート・ラッセル)というらしい。女たちは当初はスタントマン・マイクの存在を気味悪く思うが、酒で陽気になっているのも手伝い、つい心を許してしまう。テキサス・チリ・パーラーのジャンクフードで食欲を満たした初老の男にも、果たすことの出来ない欲望がある。その夜、凶行は起こるのである。

今作は『デス・プルーフ in グラインドハウス』というタイトルからも明らかなように、エクスプロイテーション映画やB級映画などを2、3本立てで上映していたアメリカの映画館へオマージュ的作品である。フィルムに傷が入っていたり、焼けたような独特の質感をしているのは、これらの劇場にかかっているフィルムが全国各地の使い回しによるものだからに他ならない。タランティーノはこのある種の「ロー・ファイ」な表現方法として、フィルムを故意に劣化させているのである。これらの映画館では、間違っても文芸大作などかかるはずもなく、劇場に足を運ぶ若者の趣味・嗜好は専ら下品で猥雑な方向へ向かっていくのは致し方ないことだった。ポルノ系映画やスラッシャー映画において、女たちは男の性欲を満たすために存在し、破壊的な車はしばしば男性器のメタファーとして使用された。

しかしながらそれらエクスプロイテーション映画の大部分が、プログラム・ピクチュアの規範をはみ出さなかったことを考えると、今作の逸脱ぶりは極めて稀だと言えやしないか。そもそも観客は開巻から折り返し地点に至るまで、後にこの男の欲望の犠牲になる女たちの馬鹿話を延々聞かされたことになるからである。通俗的な映画において、死んでしまう人間にまで懇切丁寧な描写をする必要はほとんどない。考えられる理由としては、その殺人の瞬間に驚かせようという意図が働いたとしか思えない。そうでなければ彼女たちの無駄話に付き合わせることは、説話論としては得策ではない。

スタントマン・マイクの一つ目の犯行から時制が14ヶ月後に飛び、場所もテキサスからテネシーへと飛び、第二の犯行は準備される。日本で言うところのコンビニの前で、スタントウーマンのキム(トレイシー・トムズ)とゾーイ(ゾーイ・ベル)、メイク係のアバナシー(ロザリオ・ドーソン)、新進女優のリー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)の4人の乗る車が、男のターゲットになろうとしている。またしてもここで観客は女たちの馬鹿話に付き合わされることになる。4人の女の他愛もない馬鹿話はいつまで続くのかと思われたが、タランティーノのオールタイム・フェイバリットであるリチャード・C・サラフィアンの『バニシング・ポイント』やジョン・ハフの『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』が唐突に引用され(『ダーティ・メリー/クレイジー・ラリー』は『ジャッキー・ブラウン』でテレビの中でかかっていた)、女たちの狂乱の終着地点として、1970年代型ダッジ・チャレンジャーでのアクロバティックなスタントライドに挑戦することになる。

この場面のネゴシエーションの馬鹿さ加減は、これまでの馬鹿話とは違い、底抜けに面白い。それはスタントマン・マイクの凶行がいずれ起きることを我々が知っているからであり、殺人鬼の凶行を今か今かと待ちわびているからである。ホラー映画において、頭の悪い若者たちがしばしば殺人鬼の餌食となるように、彼女たちの生の終わりの瞬間が残酷にも設定され、我々観客はそれが現実に起きる出来事ではなく、最初から映画の中の出来事として架空の死であることを理解しているからである。ゾーイがボンネットに乗り、スリルと興奮を味わっている最中、女たちの登場を待ちわびていたスタントマン・マイクの双眼鏡のフレームの中に、彼女たち3人を乗せた(厳密には1人は車外にいる)車が入り込む。

しかしながらタランティーノの魅力は、ここからラストまでの場面にあると言っても過言ではない。ここではエクスプロイテーション映画というジャンルからのあっと驚く逸脱が、物語を支えている。ここに来てタランティーノが、前半部分でただ簡単に死んでいく人たちを過剰に描写したことの意味を悟り、スクリーンの前でガッツ・ポーズをしてしまう。この場面は、「裏切りと復讐」というモチーフを持つクエンティン・タランティーノの面目躍如とも言える胸のすく名場面である。80年代以降、最も味のある俳優であるカート・ラッセルの顔に刻まれた皺が今作ほど重い十字架となる作品はない。惨めなまでに陰惨なスタントマン・マイクの姿は、これまで幾多の落ち目の俳優を輝かせたタランティーノらしい演出であり、カート・ラッセルの21世紀の代表作でもある。他愛のない馬鹿話から着想するタランティーノのシンプルな面白さに原点回帰した21世紀の傑作中の傑作である。

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