先生のことば

近づくにつれて鼓動が速くなる。

みんなの元気な声が聞こえてきた。無意識のうちに全身に力が入る。朝日と共にどう考えても場違いなリズミカルで優雅な音楽が校舎と私を包み込む。

真っ黄色の衣装に身を包んだ目立ちたがり屋の交通安全指導のおばさんが笑顔でいってらっしゃいと手を振った。
行きたくないな。そう思いながらも社会が決めたルールに抗うことを知らない一人の少女は校舎の門をくぐった。

YouTubeを見ていたとき突然小学生の頃の何気ない情景を思い出した。そしてあの時のあの瞬間に感じていた嫌な感情も同時に思い出した。

「人間は効率の良い生き物でですね、人間の脳ってのは、嫌な記憶は時がある程度経てば忘れてしまうんです。だから時間をとにかく置きましょう!そしたら大丈夫です!」


画面の向こうでは皮肉にもYouTuberが雄弁にそう語っていた。たくさん高評価がついてるが、私にはYouTuberが語るその楽観的シナリオは無機質で無味乾燥なただの言葉の羅列にしか聞こえてこなかった。 
 
小学生のその少女は毎朝布団に忍ばせておいた体温計を親にバレないように引っ張り出して熱を測ってはため息をつき、無理に笑顔を作って学校に通っていた。

少女には親に話す勇気というものがなかった。自分に問題があるんだろう。そういって自分の中で勝手に結論を出し、どうすれば自分を変えることができるのかということばかり考えていた。

自分が悪い。自分が悪い。
だから。みんなに馴染めない自分を憎んだ。

少女の声は誰にも届かぬまま少女の自信を奪っていった。ただ、少女にはそう考えてしまう理由があった。幼稚園生の頃先生から言われた言葉だ。

「みんながね、あなたといるといごこちのわるさをかんじているっぽいの。もうすこしなにかかえられない?」

今となっては年長の歳で転校してきた幼稚園児に急にそんなことをいうものか、もはや私の方が環境になれていないのだからそれはこっちのせりふだと言いたいところだが、その先生の言葉は声を出すにはいろいろな意味で脆弱すぎる幼稚園児の心に鉛のように重くのしかかった。

数年後には、自分が周りとずれているという仮説をより確実なものへと変える十分な判断材料となっていた。

中学校へ入学した少女は、1、2年年次は変わらず憂鬱な日々を過ごした。日々できるだけ自分を押し殺しながら生きた。

たまに後夜祭など弾けてしまう場面で自分を出してしまうことがあった。しかしすぐに周りから痛い視線を向けられさらに殻に閉じこもった。

そうだよね。自分をやっぱりだしたらだめだよね。ごめん。そう考えることしかできなかった。

運がいいことに、最終学年で自分を理解してくれるといえる友達に少女は出会った。その友人らは少女を少女として理解してくれた。個性の強い少女を受け入れた上で笑ってくれた。

楽しかった。嬉しかった。本当に嬉しかった。

自分って変わらなくてよかったんだ、少女はそう思えるようになっていた。自分自身がコンプレックスであった少女は、徐々にありのままの自分を受け入れられるようになっていた。

それからというもの時間はあっという間に流れ、今では私は私だと胸を張っていえるようになっている。
ただ、時々今でもふとした瞬間に幼稚園の先生の言葉を思い出し、その言葉とセットで嫌な幼少期の記憶が頭の中を駆け巡り自分が削ぎ落とされそうになる。

嫌な記憶を乗り越えるにはもう少し時間がかかるだろう。それか一生その記憶は消えないかもしれない。正直、それは別にいくら時間がかかってもいいと思っている。

ただ、戦力対象外の子供を相手に、私にかけたような言葉を掛ける大人を作り出してしまった社会を直ちに変えたいとは思う。小さな声を聞けるような社会を急いでつくりたいと思う。

私はたまたま運が良かったから乗り切れたが、生きることを諦める子供を増やさないためにもまずは自分ができることとして小さな声に耳を傾けていきたい。
                  text/ゆりな
                 

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