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スポーツの魅力は”たまり場”で決まる(1/3)

※一部加筆して再掲します

いやぁ、ラグビーW杯。世界陸上、世界体操ここ1ヶ月はスポーツが最高に楽しかった。

スポーツを経験者も無縁な人も、みんなが一緒になってスポーツの会話を楽しんでいる様子を見ると、「スポーツの本来の姿をってこれだよなぁ」と思ってしまいます。


今回は、そんなラグビー”にわか”ファンが、スポーツとたまり場について書いてみたいと思います。(全3回の予定です)


スポーツ×たまり場。

一見全く関係のないように感じますが、スポーツの楽しさというのは、実は”たまり場”によって左右されるんです。


スポーツは「する」もの?「見る」もの?


今でこそスポーツは、みんなで見たり、ボランティアで支えたり、新たな価値が見出されるようになってきました。

こうした”見る”、”支える”というスポーツの価値観は、ヨーロッパでは昔から当たり前のように行われていました(フットボール、サッカーを中心に)が、日本人がスポーツをこれほどまで見たり、支えるようになったのは、つい最近のことです。


これまで日本においては、あくまでスポーツは”する”もの、いわゆるプレーヤーに主眼が置かれていました。その理由は、日本におけるスポーツが、「娯楽」ではなく「教育」の中で普及してしまったからです。


体育とスポーツ

1876年に近藤鎮三という人が文部科学省(当時は文部省)の教育雑誌の中で「身体に関する教育」という言葉を使ったことを皮切りに、教育の中に身体を使った活動、いわゆる”運動”が取り扱われるようになりました。これがのちの体育となります。そしてこの体育の中で”教材”として使用されてきたのがスポーツでした。

学生時代を思い返してみると、私たちは体育という授業の中でサッカーや野球をやっているだけで、”サッカー”という授業がある訳ではありませんよね。

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本来、スポーツは楽しいもの、気晴らし、娯楽といった意味で使われていましたが、当時における日本の体育は、あくまで「屈強な兵隊を作ること」が目的です。

本人の体や心が強くなるための訓練ですから、スポーツを「する」人に焦点が当てられていたことは言うまでもありません。こうして、ヨーロッパでは”する”ことや”見る”ことによって楽しまれていたスポーツは、日本の体育の中に取り扱われた途端、楽しみ方が”する”ことのみになっていきました。(楽しかったのかどうかすら不明ですが)


ちなみに学生時代に入るのが怖かった「体育教官室」。正確には「体育科準備室(体育科職員室)」ですが、いまだ「教官室」と呼んでいるのは、まさに軍国教育の名残なんです。



しかし、”する”ことに注目がされがちだった日本のスポーツ界にも、テレビの普及や”パブリックビューイング”という新たな文化が輸入されたことによって、スポーツの価値はより広がっていくこととなります。それに伴い、スポーツにも”たまり場”が出現していきます。

(2/3)へつづく


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