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スポーツと”余韻”


新型コロナウイルス感染症拡大の影響で、大分県内もほとんどの公共施設が閉鎖されていますが、私も以前は市営のトレーニング施設に通っていました。

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施設では、仕事帰りのサラリーマンやOL、定年退職されたであろう高齢者など幅広い世代の方々が思い思いに運動に励んでおり、運動やスポーツがとても身近なものであることを強く実感します。ただその一方で、私はそのようなトレーニングの光景に違和感を覚えています。


というのも、受付をした会員は、更衣室でトレーニングウェアに着替え、器具を使って運動し、シャワーを浴びて帰る訳ですが、その間、他の会員と談笑したり、一人でくつろいだりする会員がほとんどいないんです。時折、常駐しているトレーナーと会話している様子もありますが、器具の説明を受ける程度で、雑談をしている様子はほとんど見られません。


あたかも仕事の一部であるかの如く規律に従って運動している様子を見ると、「運動ってこんなものだったかな」と寂しくなってしまいます。

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何事も”余白””や”余韻”が鍵

 私は、何事も「余白」や「余韻」が重要であると思っています。映画や本を見終わった余韻、カフェやバーで一人「ぼうっと」とする時間、仕事の合間のタバコ。一見すると無意味な時間のように感じられますが、むしろ、こうした「何もしない時間」にこそ多くの魅力が詰まっていると思います。


 ホイジンガは「人間はホモ・ルーデンス(=遊ぶ人)である」と唱えましたが、この立場をとると、運動やスポーツも「遊び」や「楽しみ」が土台になければなりません。

ただこうした”楽しみ”は、「痩せた」とか「健康診断の数値が下がった」というように可視化できるものだけ訳ではなく、不可視化なものも含まれるのではないかと思います。

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活動が終わった後、他人と他愛ない会話をしたり、飲み物を片手に「ほっ」と一息したり。こうした余韻を、自分ないし不特定多数と共有することで、感性と知性が統合されるのではないのでしょうか。

そして偶然出会った人との会話で新しい自分に気づき、学ぶ。そしてそれらがおもしろさに結びつく。このように余韻は、意図性と無意図性が交差しながら、ダイナミックでフレキシブルな時間と空間を提供してくれます。

私たちは、このような余韻の時空間を「たまり場」と呼んでいます。


極言ですが、運動やスポーツ活動の本当の魅力は、その余韻にあります。


不要不急の外出自粛要請で、こうした余韻を生成しにくい状況ではあるが、だからこそ要請解除の折には、大いに余韻を楽しんで欲しいと思います。


書籍購入費などに使います。 みなさんのおかげでたくさんの記事が書けています。ありがとうございます。