もっと感覚重視の判断基準を持ってもいいと思うのコピー

勝ちたいと思わなくなった先に見えたもの

こんにちは。長田(@SsfRn)です。

先日、ふと思ったんです。

「いつから、勝ちたいと思わなくなったんだろう。」と。

僕には、勝負欲、勝ちたいという欲がない。あまりにもないものだから、前職の会社の上司に「悔しくないのか!?」と言われても、「ハングリーさが足りない!男だったら負けたくないだろ!?」と言われても、正直何も響かなかった。

競争が激しいこの社会において、このマインドは一見間違っているように思えるし、実際僕自身でもそう思っていた。

こんな自分自身に対して自己嫌悪を持ったこともあったし、「自分はダメな人間なんだ」と頭を悩ませた時期は一定期間あった。


少し話は遡るが、僕はもともとテニスを体育会系でずっとやってきた、生粋のスポーツマンである。中学生の頃はプロテニスプレーヤーになる!と息巻いてテニスに没頭してたし、高校生の頃は通信制に通い勉強もせずにテニスだけに打ち込む毎日を送っていた。そのおかげで全国大会も経験させていただいたこともある。

全国大会に出場するまでは、本当にテニスが大好きだったし、誰よりも上手くなりたい!勝ちたい!と心から思っていたし、努力の娯楽化状態だったのは紛れもない事実。

でもなぜだろう。全国大会ベスト8までいった時、急に勝負の世界が怖くなった。

勝って勝って勝ち続けている時は、あらゆる人から賞賛の声をいただけるのだが、負けた瞬間にそれが全て崩れる気がした。負けるのが異常に怖くなったし、勝っても勝っても、それが崩れるのなら、なんのために勝てばいいのかわからなくなった。

勝ち続けた先には何があるのだろうか?

その勝ち続けた先の未来が怖くなって、大きな不安を覚えた。

勝つということは、誰かと競争するということである。競争の世界に身を置いている自分を客観的に見た時、気付いてしまった。自然と誰かと比較している自分がいることに。それはスポーツに限らず、あらゆることにおいて、無意識に人と自分を比較していた。

細かい話だけど、友達と会うとき服装を比べたり、少しでも自慢できるポイントはないかと探したり、自然とマウンティングしてたり、すれ違う人のことも勝手な判断軸で評価していた。

「一体何様なんだ。」

こんなことをしている自分が強烈に嫌になり、自己否定、自己嫌悪に襲われていた高校生活。

そんな時期が一定期間続いた後、大学生の僕は、ニューヨークでとある日本人女性と出会った。その人はダンスで有名な方らしい。全然知らなかったから、その人の実績とか何の興味もなかったけど、食い入るように話を聞いていた。とてもキラキラしていて、とてつもなく眩しかったのだ。なんとなく、プロテニスプレーヤーを目指していた頃の自分が重なって見えた。そして、話せば話すほど、僕とは全く違う価値判断をしていることに気がついた。

彼女は、人と比較は一切せず、価値判断を全て自分自身と向き合って決めていたのである。

周囲の人と比較することしかできなかった僕自身とは、正反対の人間だなぁ!ととてつもなく強い衝撃を受けたことを今でも鮮明に覚えている。

この頃からだ。価値判断を自分自身の中に置き、自分自身と向き合う時間を増やしていったのは。その女性が気付かせてくれた。本当に今でも感謝している。


話を戻すが、競争が激しいこの現代社会において、勝ちたいという欲がないことは一見間違っているように見える。でも、本当にそうなのだろうか?

僕は、昔コミュニティの活動をしていたが、”楽しい”という気持ちだけで続けて、何者でもない僕が200名の人を集めることができた。

ここには一切の勝ちたいという欲はない。そもそも誰と勝負すればいいのかすらわからない。それでも、一つの結果が出せた。

競争社会に対して、大きな疑問がこの時に生まれた。

勝ちたいという欲は必須ではないのではないか?と。

もちろん、勝ちたい!という気持ちは一つのモチベーションになり得るし、実際にそのバングリー精神で、成功している人は大勢いると思う。

でも、少なくとも僕はそのモチベーションが一切ない。

そんなことより、「楽しい」と思えると、自然とモチベーションが上がってくる。いや、モチベーションが上がるというより、自然と行動に移している。実際に何かしらの形に繋がる時は、だいたいこのモチベーションで行動している時である。

この「娯楽のモチベーション」。

僕はこれを今とても大事にしているし、これからも大事にしていきたいと思う。



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