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そういえば、のこと。

学生生活がどんなものだったのか、ということ。
小中高はそれなりに楽しいこともあったけど、地味に地獄のようなこともあった。
地獄っていうのは、実家に住んでたということも大きかったと思うし、たぶん体をきれいにみせる習い事をしばらくしてたのもあって、私はずいぶん自分の見た目を責め続けた。気づかれてたかはわかんないけど。

それから解放されるような歩みを始めたのは大学生になってからだ。
すべてがいいことばかりでもないし、自由最高!っていうテンションでもないけど、四六時中体型のことをいう環境から離れられるのは大きかったし、話しても話さなくてもいい、一緒にいてもいなくてもいい友達がいるのがよかった。つまり距離感を自分で決められるのがよかった。
バイトも複数して恋愛もして、なんというか複数の世界があるのがよかった。
ゼミや授業で気になることを聞けるのもよかった。ディスカッションできるのもよかった(これは私にとっては本当に大きなことだった)。
もちろん窮屈に感じることもたくさんあったけど。
私は、自分がone of themであり、同時にonly oneでもあることを感じてもい始めたんじゃないかと思う。なんだかんだいいつつも、居心地がよかったんですね、たぶん。

いまから10数年前のこと。
大学院に進んでも、居心地のよさは変わらなかった。変わらないと思っていた。

3年目になってからのことだろうか。
なんというか雰囲気が変わっていくのを感じた。
明らかに声の大きさや、自分にはない、持ちたくもない世界が入ってきていて、それを私の好きな・好きだった友人たちがすんなり受け入れていることにひっそりと驚いて違和感おぼえまくった。
実はうまくやる術は知っているような気がしたけど、それはもうやらなくていいというか、やりたくないことだから、距離をおいた。

声が大きくて、なんでか知らんけど年長?年上のひと?に敬語が使われるのが当たり前で、なぜか集団性がある。その世界はどうしてか男性ばっかりだった。女性もいるけど、男性が集団性を帯びるのに対して、女性はぽつぽつと単体だった。
それは、あー、ホモソーシャルってやつじゃないかって思うけど、当時は考えなかった。考えないようにしてたかはわからない(だってすきなひとたちがそこのメンバーだと思うのはけっこう嫌なことだった)。
そういう世界に対する私の違和感は強かった。生存に関する危機感なみに近づいちゃだめだと思ったのは、近づいたら取り込まれて、結局自分がだめになると自覚してなかったけど、わかってたからだと思う。

実はうまくやれるような気がしたというのは、そういう世界に関わってきた経験があるからだ。どういうことが喜ばれて(まあ、気が利くってやつです)、重宝がられるか(ものわかりがよく、かつ話せる女子として)っていうのを、大学の4年間で経験したからだ。楽しいこともあったし、その役割さえすれば楽だし、でも窮屈でもあったし、違和感はやっぱりあった。でも見ないふりをしてたし、耐え難いほどではなかった。出来てしまう自分も知っていた。役割は単なるテクニックだと思っていたけど、ただ自分はそんなふうになりたいわけでもなかった。こんなふうに簡単に割りきれるだけじゃなくて、自分の価値観に何か影響しそうだと感じてもいた。

仲良くなった友達がそういう世界とすんなり付き合っていって、別に(構成しているひとたちは)いいひとだよとか、思ったよりまともだよ?とか聞くたびに、なんでおかしいって感じがこんなにわからないのかと不思議だった。いまならわかるけど。
彼らはそういう世界を知っていたし、構成員としての資格?みたいなものをすでに持っていたから、違和なんてなかったんだなぁ。外れるひともいるけど、それは減点されるからで、始めっから加点されないと資格すらない(実は加点されたところで資格がもらえるわけではないんだけども)私とはずいぶん違うなという感じ。

その頃の私はプライベートで問題かかえまくりで、手垢にまみれた言葉だけど、人が信じられなくなりつつあってやばかった。
加えて、違和のある世界の浮上と、そこに違和感ない友人たちで、それに気づく度にひそかにショックをうけてた。
別にショックを受けなくてもいいんだけど、感覚しかも自分にとってけっこう大事な感覚が共有されないというのは、わりとしんどかったような気がする。絶望してたけど、見ないふりしてたし。

人生で一番戻ってやり直したい時期もこのときだった(だった、というのは、それを認めたらまあええかと思ったから)し、あの頃なにに励まされたら一番よかったかなぁってのは、たまに思う。
たまに思うのは、今でもごくごくたまに似たような気持ちになることがあって、励まされたいんだなぁと思う。あと、たまに似たような気持ちになるひとを見かけることがあって、その場をうまくやるテクニックや気持ちの整理の仕方よりも、違うことが言いたいし、言われたい。

不機嫌でも憮然としててもよくて、怒っていい。
ちゃんと怒っていい。
私は、うまくやることやうまくやり過ごすことじゃなくて、誰かにそう言ってほしかったんだと思う。
ちゃんと怒っていい、でも私はハッピーに怒りたい。真剣だけど軽やかに、自分にしこりを残さないために。

エンパワーメントっていうことについて考える。
ハッピーに怒るには、そして伝わるように怒るにはどうしたらいいかな。ハッピーに怒るのは相手のためじゃなくて、自分のためだ。自分に対する気遣いだ。
なんてことを、BlackPinkやあっこゴリラを聞きながら考えた。彼女たちの不機嫌な表情は、なんというか超キュートだと思う。矛盾してるようでしてないんだな、これが。

(三木)