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飽和するモノと枯渇する意味

現代の日本で生を営んでいる私たちは、日常を安全かつ快適に暮らすために必要とされている、ほぼありとあらゆるモノを手に入れることができる時代に生きています。

コンビニもあるし、普通に生活する分には困りませんよね。三種の神器といわれたテレビ、洗濯機、冷蔵庫はみんな持ってます。


たった半世紀のあいだに「憧れの対象」となっていたモノが、すでにあまねくいきわたっているのが、現在という社会です。
このような「恵まれた状況」にありながら、多くの人々は、なんとも名状しがたい欠落感を抱えながら生きています。人類の長年の夢であった「差し当って、今日を生きるのに大きな心配がない」という状況が、多くの人にとって現実のものとなったにもかかわらず、何かが満たされていない、人生において何か本質的に重要なものが抜け落ちているような感覚です。

これは、、、確かに感じます。

物質的な欠乏という課題がほぼ解消されてしまった世界において、人はどのようにして「生きる意味」を見出していけばいいのでしょうか。
ニーチェは150年も前にすでに、現代人が「意味の喪失」という問題に陥り、ニヒリズムに捉えられることを予言しています。
ニヒリズムとは何でしょうか。ニーチェは次のように定義しています。すなわち「何のために、という問いに対して答えられないこと」だと。「何のために」という問いへ答えられない、つまり「意味が失われた状態」こそが、ニヒリズムの本質だ、というのですね。

私たちは「モノが過剰で、意味が希少な時代」を生きています。「モノ」がその過剰さゆえに価値を減殺させる一方で、「意味」がその希少さゆえに価値を持つというのが21世紀という時代です。

僕の業界は住宅業界なんですが、住宅も過剰にあふれていますから、、ヤバい?シェアの時代でもありますし、不安しかない日々です(><)





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