劇場が育むものは何か。子ども参加型演劇「かむじゆうのぼうけん」の軌跡

 梅雨明けして、いよいよ夏だ!という矢先に、伊丹市立演劇ホール「アイホール」の用途転換を具体的に検討しているとのニュースが舞い込んできた。理由の1つは、住民の利用が少ないこと。採算性も課題だそうだ。

 私は、当劇場で子ども参加型演劇「かむじゆうのぼうけん」を2018年から毎年上演してきた。近年は、リピーターの家族も増え、子どもたちの成長を喜び会える、再会の場になってきていた。

 劇場とは、お芝居を観に行って終演したらそそくさと家路に向かうような場所と思われるかもしれないが、実はそれだけではない。

 そのことを今、多くの方に伝えたい。

 実は、「かむじゆうのぼうけん」はアイホールで上演する前は、京都市左京区の小劇場アトリエ劇研で上演されていた。2007年に初演し、アトリエ劇研が閉館する2017年まで毎夏に上演したのだが、そこで私たちは、多くの子どもたちと出会い、育ちを見守ってきた。そしてそれは、私たちの力になった。

 その軌跡を紹介することが、私に今できることだと考え、この度noteを開設し、文章を書くことにした。

 この文章は、昨年のコロナ感染症による活動自粛期に、「新型コロナウィルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金」を活用し執筆したレポートを編成し直したものである。長文なので、数回に分けて記したい。

 今回は、かむじゆう役を演じている大熊ねこさんの寄稿をあげる。

 アトリエ劇研で最後の公演となった2018年に、Fちゃんからもらった手紙のエピソードだけでも、ぜひ読んでいただきたい。

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『灼熱の太陽』

“かむじゆう”との出会い

 灼熱の太陽、蝉の声、夕立の気配。夏がくれば「かいじゅうになる季節だ」と胸が躍る。
 わたしが初めてかいじゅうに変身したのは2007年のことだ。京都の閑静な住宅地にあった小劇場「アトリエ劇研」では、夏休みに地域の子どもたちに向けて「なつまつり」を開催していた。この劇場のある地域は地蔵盆がなかったため、その代わりになるものをと、アトリエ劇研館長・波多野茂彌氏の肝入りで始まった企画であった。
 しかし、普段から演劇を鑑賞したり実演したりする目的を持った人たちが主に出入りする場所であったためか、一般への認知が思うように広がらず、集客に苦戦していた。数年間にわたり試行錯誤を繰り返して、親子向けの鑑賞+体験型演劇イベントとしてリニューアルされた「なつまつり」、それが「かむじゆうのぼうけん」なるコンテンツのスタートだった。
 わたしは当時、役者として活動する傍ら、アトリエ劇研の事務スタッフとして勤務していた。劇場スタッフという立場から例年の「なつまつり」の集客の現状を察知していたので、どうしたものかなあと頭を悩ませる当事者のひとりでもあった。
 そんな時に、当時同劇場の舞台スタッフであった、まいやゆりこさんに声をかけてもらった。
 「『かむじゆうのぼうけん』に“かむじゆう”として出演していただけませんか?」
願ってもないことだった。劇場スタッフとして新たな企画に貢献できることもさることながら、個人的には、何より本業である役者としてこの企画に関われることがとても嬉しかった。
 とは言っても、当時はまだ子ども向けや親子向けの演劇コンテンツはほとんど世間に浸透しておらず、わたし自身も初めての経験で、手探りの状態からのスタートだった。

 最初からわかっていたこと。それは、わたしが演じる“かむじゆう”というかいじゅうは、本体部分としっぽに分かれていて、それぞれを別の人間が演じるということだ。わたしは本体部分を担当して、しっぽは別の演者さんが担当する。しかしもちろんひとつの生き物なので、基本的にくっついた状態で存在する。
 このコンセプトが何とも魅力的だった。二人分の身体が合わさっているので、そのぶんかいじゅうらしい大きく奇妙な体躯が形づくられる。また、自分ひとりの身体で自在に動ける自由がないので、自然と動きはのっそりとする。そしてこれは演じていくうちにわかってきたことだが、常に繋がっているもうひとりの自分を意識し続けているということは、俳優の意識としてもコミュニケーションとしても多くの示唆を孕んでいた。(後述)

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劇場で、ひとりひとりと向き合う

 「かむじゆうのぼうけん」は、先述の通り劇場から発信されたコンテンツである。手弁当ではあったが、普段から劇場運営に関わっている様々な分野のスタッフが、それぞれが持てる技術を惜しみなくこの企画に提供してくださった。そのため、あらゆる劇場のスペックとスタッフという存在自体の力を総動員した内容が、現在に至るまでこの演目の最大の魅力の一つとなっている。
 第一回は、劇場いっぱいに敷き詰められた模造紙を子どもたちが思いのままに絵や折り紙で彩り、それが舞台美術となって物語が進行するという内容だった。劇場いっぱいに絵を描いていいなどとそんな夢のようなこと誰が想像しただろうと、立派に大人になったわたしすらも思うほどだった。そして何より素晴らしいと感じたのは、単なるお絵かきや工作の時間だけで終わらせることなく、子どもたちの描いた作品が物語の登場人物に何らかの影響を与え、さっきまで鑑賞者であった子どもたちが物語を構成する一員になるという展開を持っていることだった。自分の表現が誰かに影響を与えていることを知った時、子どもたちの感情が動き、目が輝き、今を存分に楽しむために次に自分に何ができるかを考え始める。我々の想像を超えた創造的瞬間が次々と生まれ始める。その時間に立ち会った時、えも言われぬ感動があった。劇場の力、物語の力、演劇の力をまさに眼前に見た。

 素晴らしい出会いであった。しかしながら、前述の過去の傾向から予想されたように、初年度からしばらくは集まってくれる子どもたちの数は少なかった。迎えるスタッフの人数の方が多いのではないかという日もあった。しかし思い返せばその期間があったからこそ、来てくれた子どもひとりひとりとちゃんと出会い、エピソードを共有し、毎年の成長を楽しみにするという喜びが生まれた。最初から大人数の子どもたちに出会っていたら、ひとりひとりを覚える余裕もなかっただろう。おそらく初年度から5年ほどたった頃からだろうか、リピーターが増えてきてお友だちを連れてきてくれるようになり、企画側としても広報を充実させる準備ができたことから、30〜40名の定員を超える申し込みを受け付けるまでになった。そうなってからも、できる限りひとりひとりにフォーカスすることは続けている。

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Kくんのはなし

 「かむじゆうのぼうけん」が一番最初に迎えたお友だち、それがKくんだった。岐阜に住んでいるが、おばあちゃんの家が劇場の近くにあったため、お母さんの里帰りの際にこのイベントを偶然知って、来てくれたのが最初だった。Kくんは当時5歳くらいだったと記憶している。彼は長男だが、その当時お母さんのお腹の中に弟くんがいた。持ち前の人見知りと、もうすぐお母さんを独り占めできなくなることを知ってか、お母さんに甘えてなかなか離れることができなかった。しかし“かむじゆう”とその仲間たちに出会ってお話の中で遊んでいるうちに、少しずつ笑顔が見え、出演者とも仲良くコミュニケーションが取れるほどになった。終わってから、イルカの絵が入ったお手紙をくれたのは、今も大切に持っている。それからも里帰りの時期が合うたびにきてくれるようになったKくんは相変わらずシャイだけれど着実にお兄さんになっていった。お腹の中にいた弟くんももちろん参加してくれるようになり、一人で折り紙を折れるくらいになった頃、Kくんは小学校高学年くらいになり、子どもスタッフとして、わたしたちのお手伝いをかって出てくれた。他の子どもたちの折り紙のゴミを片付けたり、ハサミの管理をしたり。“かむじゆう”はお母さんの胸で泣いていたKくんと一緒に成長したといっても過言ではない。忘れられない存在だ。

Nちゃんのはなし

 Nちゃんも「かむじゆうのぼうけん」黎明期に迎えたお友だちだ。最初に出会った時は4歳くらいだったかと思う。
劇場に入ってくるなり、扮装をした照明スタッフの姿に驚いて泣き叫び、エントランスのカーテンの中に隠れて出て来れなくなってしまった。周りがなだめすかすが、照明スタッフが目に入ってしまうともうだめだ。その時の彼女にとって劇場はお化け屋敷状態になってしまったが、そんな姿もわたしたちはほくほくと微笑ましく見ていた。
 Nちゃんは次の年もやってきてくれた。あの時の照明スタッフはいるのか…。おずおずと劇場に入ってくるNちゃん。同じ扮装のままで笑顔で出迎える照明スタッフ。ドキドキと見守るわたしたち。少し成長したNちゃんは、自分が「もう恐くない」と感じていることを味わうように、笑顔で物語の世界に入っていくのだった。そして、お昼休みにふと見れば、その照明スタッフの背中に乗り「まえにすすめ〜!!」と元気よく叫んでいるのだった。
 Nちゃんも“かむじゆう”の成長になくてはならない存在だった。それから10年近く経って、中学生になったNちゃんが遊びにきてくれた時は本当に嬉しかった。

Fちゃんとアトリエ劇研の閉館

 “かむじゆう“が初めてFちゃんに会った時、Fちゃんは幼稚園の年長さんだった。いつもお父さんときてくれる元気な女の子だった。ちょっとおませで、こちらの問いかけに大きな声で答えを教えてくれる活発な印象の女の子だった。毎年来てくれているうちにこちらの展開がわかっているところがあって、答えをちょっと先取りして大きな声で言ってしまうところがまた可愛かった。ある年は同い年のお友だちを何人か引き連れて来てくれて、ちょっとおませな小学生女子が集まった時に持てるパワーを存分に発揮してくれた。とにかく元気印、がわたしのFちゃんの印象だった。
 会場のアトリエ劇研は、建物の老朽化や館長がご高齢になられたことなどに伴い、2017年8月31日に閉館することとなった。11年目を迎えた「かむじゆうのぼうけん」も一旦これで一区切りということになり、参加者にも開催の告知の段階からそのことをお伝えした。
 また最終年に伴い、毎年のように参加してくれて、成長して対象年齢ギリギリになったお友だちも増えてきていたので、今までの集大成という気持ちも込めて、先述したKくんと同じように「子どもスタッフ」の希望者を受け入れることにした。
 その年9歳のFちゃんも申し込みで「子どもスタッフをやりたい」と希望してくれていた。さすがFちゃん、待ってました。これは元気にやってくれるぞと期待していた。
 しかし、やってきたFちゃんは今までと別人のようだった。帽子を目深にかぶって下を向き、全員が舞台上に輪っかになって集合する時も集まらず、客席でじっとお父さんの横に座っていた。客席にいる乳幼児さんや、空間に恐怖感があるお友だちには、わたしから客席に出向いてお名前を紹介しにいくのだが、Fちゃんに近づいて名前を聞いても、お父さんの腕に顔を当てて何も言わない。
 Fちゃんはいったいどうなってしまったのだろうか。
 上演中もFちゃんのことが気になる。演じながらもちらりちらりと表情を見る。お芝居の鑑賞の時は、ほかのお友だちと同じ位置までやってきて一生懸命見てくれていた。しかし、子どもたちがお芝居に参加するところになるとまた客席に戻ってしまう。子どもスタッフもとてもできそうに見えなかった。
 すべてのプログラムが終わり、お見送りをする時に、お父さんに背中を押されてFちゃんがわたしたちのところにやってきた。「お手紙、一生懸命書いてたやろ。お渡ししたら。」お父さんの言葉に後押しされて、Fちゃんは泣きそうな顔でおずおずと手紙を差し出した。そして「ちょっと待って」と言って、手紙の中身を取り出し、便箋の最後の一文の部分を切り取って自分のポケットにしまい、もう一度手紙を封筒に入れた。そしてFちゃんのメッセージはわたしの手元にやってきた。
 年長さんの時、初めて来てから毎年毎年とても楽しみにしていたこと、お友だちを誘って来たこと、4年生になり、年齢的に大きくなってしまったので来るのを迷ったこと、でも今年は最後の開催だから、子どもスタッフもやりたいし、来たくて来たけれど、今の小さなお友だちに、かつて自分が出会った時のように楽しんでもらいたいということ。わたしたちへの丁寧な感謝の言葉。
 アトリエ劇研で最後にもらったFちゃんの言葉は、これからもなお心に響く。
 心が大人になっていく姿を見せてくれたFちゃんの幸せを祈らずにはいられない。
 あの時切り取った最後の一文には、何が書かれていたのだろうか。

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終わりとはじまり

 「かむじゆうのぼうけん」は、生み育まれた劇場・アトリエ劇研の閉館のため、11年目にして区切りを迎えた。歴代の共演者、たくさんのスタッフ、たくさんの子どもたちに支え育てられ、劇場で開催することの意義や子どもたちとの関わりにおける考え方、演劇が持てる力について、「かむじゆうのぼうけん」チームとして共有し、経験を積み重ねることができたことはかけがえのない財産となっていた。
 「いつかまた、どこかで」。現実味なく、漠然とした気持ちで迎えた2017年の「かむじゆうのぼうけん」だったが、ある日突然の伊丹・アイホールの山口館長からの電話で、未来は動き出す。
 アトリエ劇研閉館後、2018年8月から「かむじゆうのぼうけん」は伊丹・アイホールの子ども向けコンテンツとして再始動した。地域の性質が違うことももちろん、公立劇場で、会場の広さも収容人数も今までと違う条件で、“かむじゆう”がどうなっていくのか、新しいチャレンジが始まった。アイホールでの2018、2019年度の開催では、各日定員70名の申し込みが、受付開始から約10日間で完売する驚異の展開を見せている。スタッフの方が多いよねと言っていたあの頃からは想像のつかないことだ。
 2020年度からは全国に向けてのツアー計画が始動する予定であったが、現在の、この予想だにしない世情のため、また0からのスタートを余儀なくされそうだ。
 しかし、0からのスタートには慣れている。

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“かむじゆう”とわたし

 最後に、わたしにとって“かむじゆう”は何であるか、まとめておきたいと思う。
 「かむじゆうのぼうけん」では、わたしは最初のプログラムでパンダさんこと大熊ねことして子どもたちと出会い、お話の時間が始まる時に衆人監視のなか舞台上でかいじゅうの衣装に着替え、おもむろに“かむじゆう”になる。つまり子どもたちはパンダさんが“かむじゆう”になる瞬間を目の当たりにすることになる。
 しかし、か、だから、というべきか、わたしが“かむじゆう”として子どもたちに話しかけに行っている時に、わたしを「パンダさん」として語りかける子どもはほぼ皆無と言っていい。ちゃんとわたしを“かむじゆう”として向き合ってくれる時、その子どもたちもまさに物語のなかにいる。演劇という世界を信じて、そのなかで遊びを見つける時、子どもたちもすでに立派な役者なのだ。この気づきは、現在もわたしが演劇を創作したりワークショップを開催したりする際に、参加者にとってどのような時間を創るかの大きなヒントになっている。
 
 “かむじゆう”は物語のなかで、思いきり笑い、怒り、ケンカし、泣き、感動する。わたしのなかに未だ巣食う「子ども」が露わになる。その状態で、格好つけたりすることなく、いまの子どもたちに心から素直に向かい合うことができる枠組みを「かむじゆうのぼうけん」は内包している。
 最初の方に書いた、しっぽとの関わりともつながっている。自分の素直な内面も使いながら、常に繋がっている先に他者がいるという客観性を与えられる。それは「誰かといる」という安心感とも文字通り背中合わせである。“かむじゆう”が感じている他者とつながっている喜びと客観性は、わたしたちが世界の中で生きていくのに不可欠なことだ。
 そしてそう感じられるのは“かむじゆう”を10年以上にわたりともに演じている“しっぽ”、芦谷康介くんのおかげでもある。
 演じるたびにいまの自分と、いまの子どもたちと、まっすぐにつながる。演者と観客の関係から、それを超えてともに時間を創る一員となる。そこに「演劇」がある。「演劇」でしかなし得ないことがある。
 
 2007年に28歳で“かむじゆう”を演じ始めたわたしは、いま41歳でなお“かむじゆう”を演じ続けている。

大熊ねこ

大熊ねこ /西宮市出身。俳優。京都を拠点に活動する劇団「遊劇体」所属。2006年より、子どもや青少年対象の演劇の手法を活かしたワークショップ指導に携わり、一般社団法人生涯学習開発財団認定ワークショップデザイナーを取得。武庫川女子大学文学部日本語日本文学科・同短期大学日本語文化学科非常勤講師

◇◇◇

 次回は、子どもと出会う場に演劇を用いるのか。そこを掘り下げながら、「劇場が育むものが何か」を考えていきたい。

アイホールの未来に願いを込めて。












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