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菅俊一展 ギャラリートーク 前編



こんにちは。杞憂です。

先日コグニティブ・デザイナー、菅俊一さんのギャラリートークを聴講してきました。せっかくなので記憶を頼りに、メモを残します。


松屋銀座7F デザインギャラリー1953
菅俊一展「正しくは、想像するしかない。」

3/20(水)〜4/15(月)



菅俊一・岡崎智弘・岡本健さんによるギャラリートーク

 - コグニティブ・デザイナー / 表現研究者 / 映像作家 / [多摩美術大学美術学部統合デザイン学科]専任講師。

 - 映像作家 / 2011年よりデザインスタジオSWIMMINGを設立 / 著書に「デザインあ 解散!」(小学館)。

  -  グラフィック・デザイナー /(株)佐藤卓デザイン事務所を経て2013年に独立 / 多摩美術大学統合デザイン科非常勤講師。


豪華3名による鼎談。3者が出会った頃は、菅さんはおもちゃメーカーで開発に携わっていた頃、岡崎さんは「デザインあ」で話題の「解散」を作っていた時、岡本さんは佐藤卓さんの事務所に勤めていた頃だという。(以下敬称略)


展覧会タイトル「正しくは想像するしかない」

『人間の頭の中のイメージのデザイン』がテーマだという、本展。

頭の中で、動いているイメージを実感してもらいたい時に、実は映像を見せる必要はないのではないのか? ー という菅俊一の問い。

「頭の中で動きを感じる情報」だけ与えてあげれば、そこだけで生まれる美しく・気持ちのいい形や動きが生成されるのではないか?

ある種のイデア- 理想化された動きは、アニメーターが作る精密なそれである必要はないのかもしれない。


1. 透明の発生

*1

線の質感・表現を変えるだけで「透過」感覚を作りだす試み。

透過している感覚を線の形状・またはオブジェクトの一部が欠けている形で、シンプルに表現している。にも関わらず鑑賞者の想像の中ではそれが液体に見えたり、ガラスに見えたり、実際に目にするものと想像の中で目にするもののギャップに、ハッとする。


2. 乗り越える視線

*2

ディスプレイや紙に描かれた顔の視線同士をつないで、空間に線を描く試み。

菅: 視線という者に興味がある。ー 視線は「線」と言いつつ視覚的に線は全く見えない。「誰かに見られている」という感覚は、生まれながらにして私たちが持っている、本能的なもの。

ディスプレイの中の目が、ディスプレイの外を見ている。その視線の先にある目は、ディスプレイの外の空間の壁に書かれたものである。視聴者はメディアの存在関係なしに、その視線を自然と追ってしまう。つまり視線はメディアと環境が溶けた状態にあると言える。それを鑑賞者は意識しないことがとても面白い。あえてノイズを足して、それがキャンセルされるかをテストしたかった。(菅)


3. その後を想像する

*3 

これまで目にしてきた情報を手がかりに、その後どうなるのかを想像させる試み。

45秒の間に何かが起こる。直線的な変化が起きるけれど、最後の結末はブラックアウトして見えなくなる。例えば羊羹のような直方体に、細長い線が降りてくる。直方体を切る、その切れるぞ!という部分で映像はブラックアウト。その先の映像は鑑賞者の中にある。


もう一つは本を使ったインタラクション。例えば、本の右側にはカップ、左側には角砂糖。鑑賞者が本を「閉じる」動作をすると共に、頭の中にイメージが作り出される。

岡崎: これまでの「デザイン」の定義は、造形的なアウトプットのイメージを作り出すことにあった。でも菅さんは、それを見た後の、人間の頭の中のイメージが、ミリセカンドでどう変化するか?をデザインしているイメージ。

菅: なので、情報量はどんどん減っていって、もう動かなくていいかもと思ったり、色も全くなくなった。そこにある情報は最小限でよくて、如何に人の脳内に情報を生み出すかを常に考えている。

例えば2.で使われている顔は、「顔だ」とコンマ何秒で瞬時にわかる必要があるから、最適な目のサイズ、鼻の形、口の位置をミリ単位で調整した。瞬時にわかることは作品にとって非常に重要なことだから。


長くなってきたので、次に続きます。→


杞憂



*1 *2 *3 『菅俊一展 正しくは、想像するしかない。』 「想像する能力」を考察より引用



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