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【鬼滅の刃原画展】アナログだからこそ感じられる繊細さと生命の宿り

破竹の勢いで次々と歴史を塗り替え、人気絶頂の最中終止符を打ったのが約1年前。

それでも人気は留まることを知らず、今でも水面下では放送が決定している遊郭編の続きとなるアニメやもしかすると映画化、その他新グッズの商品化など次から次へと絶え間なく動いていることだろう。

そんな鬼滅の原画展に、六本木の森アート美術館に行ってきた。

指定の時間に集合する。展示期間も半ばが過ぎグッズも売り切れが出ている状況だが、平日昼間でも来場者は途切れず、この時点で既に不滅の人気を物語っていた。

ブースはキャラクターや章ごとに空間デザインが凝っており、ボリュームも想像以上で見応えがあった。

原画は一見私たちの手元に渡る完成された紙面であるが、よく見ると修正テープで直されていたり、筆ペンで重ね塗りした後が残っていたり、薄い水色のペンで指示された痕が残っていた。

0.1mm以下の繊細な線をペンで何度も重ね、1ページ、いや1コマで一体いくら時間を要し、何人がこの1ページに携わっているのか?その過程は作者やその作品に携わる人間しか知らないが、制作背景が映像になって見えてくるような気がした。

アナログだからこそ目に見えて分かる完成までの筆跡が、彼ら彼女らに丁寧に命を吹き込んでいるようで、まさに”鬼気迫る”生命力を感じた。

それは「キャラクターたちが飛び出してくる」という立体的な意味ではなく、目の前で死闘を繰り広げているような躍動と迫力と殺意と同時に、人間と鬼、どちらかが命尽きるまで戦う”死”の儚さ、大切な人を守るために立ち向かう「絆」が千年杉のように太く真っ直ぐ逞しく見えてきたのだ。

結局2時間半もじっくり鬼滅の世界に浸っていた。

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展示を終えると清々とした気持ちになっていた。まるで澄み切った炭治郎の心のような、そんな感覚に近かったかもしれない。

「鬼滅の刃」は残酷なストーリーだ。鬼に大切な人の命を奪われた者、鬼との死闘の末に命を落とした者、自責の念に駆られ自決した者、鬼が存在するせいで死んだ人は戦死した人よりも多いかもしれない。

日本人なら馴染みのある鬼や妖怪など昔話をベースにした物語は無数にある。

そんなよくあるジャンルの一つである「鬼滅の刃」が群を抜いて爆発的な人気となったのは、ただ戦って敵を倒す正義のヒーローの物語ではなく「人の100倍努力し、鬼を倒す理由が”必ず誰かのため”と誰もが明白で、迷いなく自らの命を懸け、最前線で悪鬼と戦い打ち勝つ」とはっきりとした目的が誰にでもあり、何より家族、師匠、鬼殺隊の仲間、誰かが命を落としてもしっかり意志を受け継ぎ、死を無駄にする人が誰1人いなかったからだと思う。

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以前「鬼滅の完結理由」についての記事を見かけた。「終わらせる」という作者の意志を拒むのは大人のお金の事情であることは目に見えて分かるし、プライベートの話では作者は女性だそうで連載のため上京していたので地元に帰って結婚するのかもしれないとか、びっくりするほど適当な記事だった。

私は完結して本当に良かったと思ってる。

長かれ短れ「物語が美しく終わるかどうか」が重要だと思っているが、「鬼滅の刃」はまさに美しく綺麗に終わったからだ。

作品を読むには時間や精神的なエネルギーを要するが、無惨戦でそのバイタリティはすっかり枯れた。無惨は悲惨なまでに強かった、無惨が居なくなっても無惨のせいで失われたものもは多過ぎた。もし無惨以上に強い鬼がひょっこり現れたとしても、これ以上誰かが死ぬところを見たくないし、読む気になれる気がしないのだ。

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時々私が自我を覚えてから亡くなった人を思い出したり、他界してしまった好きなミュージシャンの曲を聴く。

それも「不滅の想い」であるとすれば、もし炭治郎たちに出会なければ灯台下暗しのままだったかもしれない。

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