オルテガ『大衆の反逆』要約② 一章「密集の事実」
前回はこれ↓
いきなり余談だが、西部邁はオルテガから強く影響を受けていたらしい。こういうインテリ右翼って今は本当に見ない気がする。いや、もちろん少しはいるんだけど(ツイッターでも若干観測している)。右翼と言えば「ネット右翼」、左翼と言えば(ごく少数を除いて)カッコつきの「リベラル」。こんな状態で日本、大丈夫なのかな……。
さて、オルテガは「大衆の反逆」というテーマを、まず日常の情景から説明しようとする。
ようするに、人が溢れているということだ。たとえば都市部では、マンションは一杯だし、電車もたいてい混んでいるし、カフェはお客で満席状態。そういう景色が、いまや当たり前である。
ところでそれの何が驚きなのだろうか? マンションは人が住むためにあるし、カフェは人が座るためにある。それが満員なことは当たり前、あるいは望ましいとも言えるだろう。
しかし以前はこれらの設備はいつも満員ではなかった。都市にひしめき合っている人々を群集と呼ぶなら、これらの群集はこれまでは群集として存在してはいなかった。彼らはこれまではもっとバラバラに、少数者集団として生活していたが、いまや最も発展した都市部に密集することとなった。
日本でも、あるいは他の国でも、一極集中ということがしばしば問題とされる。だから、このオルテガの分析はヨーロッパを対象としたものではあるが、日本についても当てはまると言っていいだろう。
オルテガはこの「群集」という概念を「社会的大衆」と言い換え(より学問的な言葉に移し替えた)、こう語っている。
なんだかいきなりラスコーリニコフのようなことを言い出したが、まだ大衆の定義は十分ではない。とりあえず、「一般的」「他の人と同じ」性質を多く持っている人が大衆だと、ざっくり言われている。
しかし、少数者と呼ばれる方も集団をつくることはある。それはそうなのだが、そのあり方は群集のそれとは異なる。
少数者集団のつながりはあくまで二次的なものであり、特殊な理由によって集まっていることが多い。あるいは、「多数者に一致しないという点で一致している」というケースもある。簡単に言えば「マイノリティ」ということだろう。
では大衆の性質とは何だろうか。こう説明されている。
・・・・・・どうしてもツイッターにいる「普通の日本人」を誇らしげに自称する人たちを思い出してしまう。なんでか知らないが、日本は「みんなと同じ」であることの価値が他国よりも高いと思われる。
それはともかくこの定義は、単に才能のない人を表しているのではない。その状態に満足している人のことを指しているのだ。だから、続いてこう語られる。
み、耳が痛い……オルテガさんちょっと口が悪すぎじゃないか?……。
まぁこれも抽象的な定義なので恣意的に解釈する余地はあるが、ざっくり言えば「自分に対して自分固有の義務を(より多く)課す人」が大衆ではない人ということになるだろう。だから、この区別は社会階層によるものではなく、あくまで人間的な区別なのだ。
この文章のすぐ後で、オルテガは仏教を引き合いに出してこのことを語っている。「大乗の方が小乗よりも大きな義務を課す」と言うようなことを言っているのだが(p.70)、これは本当に正しいのだろうか? オルテガはこれに関しては、かなり適当な仏教理解でものを言っているようにみえる。
話を戻すと、このような意味での大衆がいまや社会のあらゆる場所に存在すること、これがオルテガが”充満の事実”などと呼んでいる事態だ。かつては芸術とか公共問題には大衆は関わらなかった。しかし今では享楽面においても政治面においてもそのような境界がなくなりつつあるとオルテガは言う。
しかしそれは喜ぶべきことではないのか?という疑問がここで出てくるだろう。少数者に専有されていた権力を万人のものにする、それが近代に目指されたものであり、いまなおデモクラシー(民主主義)は理想の政治体制とされている。だとするなら、大衆が社会の全面に現れるのは至極当然であり、歓迎すべきことではないのか? このような見方に対してオルテガはこう語っている。
つまり、かつてのデモクラシーでは、法に対する情熱があった。そのため、「(オルテガのいうところの)少数者」が尊重され、法の下にデモクラシーが回っていた。しかし今や法に対する情熱のない大衆が、いわば「お気持ち」でもって暴れているとオルテガは言う。
パッと思いつく事例では、アメリカ大統領選挙にてトランプが負けたことに対して、これを不正選挙だと主張し議会へ押しかけた人々の存在が挙げられるだろう。そういう目立ったケースでなくとも、似たような現象は探せばいくらでも見つけることができる。
ところで、そもそもここで言われている「法」とは何だろうか。単なる「法律」でないだろう。なぜなら、法律はしょっちゅう変わるものであり、悪法と呼ばれるものもしばしば存在するのだから、これを盲信することはむしろ危険なことといえる。おそらくここでは、「従うべき規範」「自らの上にいただく規範」程度の意味だろう。そういうものを持つのかどうか、これが一つの分かれ目であるようにも読める。
昔、政治家という存在は、たとえ欠点や傷があろうとも、(自分たち)大衆よりはいくらかは政治問題を理解しているものだと考えられていた。しかし今はそうではないのだとオルテガは言う。
「カフェー」のところを「インターネット」あるいは「テレビ」に変えれば、あっという間に現代社会批判の完成だ。もしこれに納得できない人がいるなら、今すぐツイッターを始めるのがいいだろう。
しかしこのオルテガの主張に対してはやはり、「誰でもカフェー(もしくはインターネット)で政治について語り、主張することができるのが望ましい社会ではないのか」という批判がありうると思う。
この問題はまた後にも出てくるだろうが、ひとまず言えることは、「大勢集まればいいというものではない」ということだ。歴史修正問題などは典型例だが、YouTubeに溢れているひどい動画を見る人間が増えることが望ましいデモクラシーなのか? もちろんそんなことはない。より多くの人が政治に参加するべきだということは、誰でも何でも好き勝手に主張して良いということを意味しない。「民主主義」ならそれでいい、などというのは馬鹿げてる。まぁこれは民主主義政治の根本問題だと思う。簡単に「回答」を出せる話ではない。
話を戻そう。上の引用でオルテガは、このような時代はいままでなかったと言っている。しかし例えば古代ギリシャの直接民主制は、このようなデモクラシーをすでに実現していた例として挙げられるのではないだろうかと思った。もっともこれはごく一部の地域でのことだし、奴隷制もあった時代の話だから、少し違うのかもしれない。
また、オルテガは「超デモクラシー」などと呼んでいるが、これは要するに昔からある衆愚政治と同じことを指していると思われる。だから、そんなに新しい現象なのか……?という疑問はある。
また、オルテガは一番最初に「これは歴史上何度も起こったことであり、・・・すなわち「大衆の反逆」と呼ばれるものである。(p.63)」と書いている。これは上記にある「歴史のうえで他にもあったとは思えない」という記述と矛盾する気がするのだが、どうなのだろう。「これほどまでに多勢の者が」という感じで、少し意味合いが異なるのかもしれない。
さて、ここまで『大衆の反逆』の一章「密集の事実」をみてきた。オルテガの議論は完ぺきとは言い難いが、重要な視点を提供しているのはたしかだろう。この本はヨーロッパについて書かれたものだから、日本とはうまくつながらない部分もある(と思う)。しかし、日本も明治、終戦後と西洋の文化を取り入れまくっているのだから、とうぜんこの本に書かれている内容を無関係とするわけにはいかないだろう。
次は第二章「歴史的水準の上昇」をみていく。
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