法実証主義の方法的欠缺
ラートブルフによれば、法概念は、法理念すなわち正義を実現するという意味を持つ所与として規定される。井上達夫の用語を借りれば、これは「法の正義要求」として定式化される。
井上達夫によれば、命令と規範の差異は、前者が単なる「指図」であるのに対し、後者は指図に還元されず、むしろ指図される行為が一定の「理由」により正当化可能であるというクレイムを内在させている点にある。そして、規範の一種としての法は、法がそれによって自らが正当化可能であると主張する「理由」が正義という価値を核にしている。
法は、「正しさ」に向かって規定されているのであって、たとえ悪法であっても、自らの「正しさ」へのコミットを放棄できないのである。ラートブルフによれば、法は正義に適合しないこともありうる。しかし、それは、正義に適合しようという意味を持つがゆえにのみ、法たるのである。
法実証主義の実定法一元論は、価値盲目的態度によって、自然の王国の中に法を認識しようとする試みであって、法がこのような「正義要求」を持つこと、さらに、法の認識において、なにが実定法に関連性を有する事実かを区別する上で、認識主体の価値評価が介在している点を見落としている。
「国際法の現実」は、実定法学の介在によって、経験的事実を取捨選択することによって構成される。したがって、異なる理論は、異なる「国際法の現実」を描写することになるのである。それにもかかわらず、ただ自己の依拠する「現実」によって、自己の理論の「正しさ」を証明することはできないであろう。
法学の客観性は、認識における価値評価を対象化し、経験的事実を取捨選択する基準を明確化することによって、法哲学と、実定法学の諸分野を、結びつけることを求めるだろう。それは、マックス・ウェーバーの求めた「自分自身との距離」をとることへの努力でもある。学問の「明確性」へ奉仕し、自己の行動における責任をとることへの一助となるだろう。