見出し画像

常識はどうやって疑うのか。

「常識」を疑うことが哲学の本質だとは思うのだけど、それってどうやるの?と常々考えてて、社会にどっぷり浸かっている「常識」から抜け出す訓練をするにも取っ掛かりが掴めない感じで時間かかる。

「なぜ世の中に常識というものが生まれ、それが根強く動かし難いものになっているのか」という論点についての考察、、、

かと言って、世の中すべてを疑うのは無理(というか、そんな時間ない)だから「スルーできる常識」と「疑うべき常識」を見極めるチカラ(教養)が必要で、目の前で起こっている事象を、「そういうものだ」と単に受け入れるのではなく、比較して相対化してみる。

それは自分がこれまで得た知識経験から、目の前の現実を比べてみて、普遍性がより低い「常識」つまり「いま、ここだけで通用している常識」を浮き上がらせ、「課題」を汲み取るためには、「常識を相対化する」ことが重要。

そうすることで「普遍性のなさ」にこそ疑うべき常識があり、教養はそれを映し出すレンズとして働き、改めて課題を設定できる、、、課題を設定して初めて変革をイメージできるんだろうな。

教養は地理的空間や歴史的時間の広がりを持った人であればあるほど、目の前の状況を相対化してみることができるようになる、ということらしいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?