ささやき
夜、コンビニに出かけた。煙草を持って行って、吸った。隣の人も吸っていたが、自分の半分くらいの時間だった。
明日からどんな風にやっていけばいい。いつものように気が狂って。もうない学生生活を思うが、そんなことは関係なく今を生きていたい。
他人を肯定するところから始めるか?いや、何も関係がなくなる。自分の虚無に直面して、なすすべがない。
楽しいことは?やりたいことは?
結局こんな状態で音楽をやろうとしても文章を書こうとしても絵を見ようとしても意味がないように思う。何もない。
最低限何かを感じられるようになるには?今直面している問題を解決すべきか。それとも忘れるべきか。健康になるべきか。感情の赴くままに生きるか。
文章や漫画にはかろうじて反応する。それが本当に意味があるか。怠惰を再生しているだけじゃないのか。
やりたくないことはやりたくない。
お金が大きく動くなら、やりたいと思う。どちらかわからないにしても、やるべきだと思う。何が面倒なのかといえば、人間が介在することだろう。人間に暴かれるのが恐ろしいらしい。
この恐怖をどう見るか?恥ずかしい。それは置いておいて。
自分はヤクザである。アウトサイダーである。人間を裏切り続けるしんどさもわかるけれど、どっかで真の真っ当とだけは決別していなければならない、それでなければ何も成立しようがないと思う。
だったら。自分を狂わせて、狂わせ続けなければいけない。冬の寒さにも負けず、目を見開いて、手や口や足や頭を高速で振り乱す必要がある。
今この瞬間から切り替えたい。切り替わっているのか。切り替わっているかどうかは何が示すのか。行動である。行動がなっていなければ切り替わっておらず、失速するのかといえば、そうならないことにこそ、切り替わりが表れるというものじゃないか?
部屋を飛び出したのは思想か?身体か?それとも何も飛び出していないのか?あるいはUFO?
狂信にこそ根本を覆すシフトがあるかもしれない。誰にだって宗教は必要だ。
信ずるべきものはその時々によって変わるにせよ、狂信を捧げることだけをここに刻む。これで安心して動き続けられる。いや、動き続けられるだろうから安心、だ。
リラックスを信奉することも非常に期待が持てる。
いずれにせよ、信じるものが何もないことがニュートラルであるわけがない。何も信じないことを信じるなら、それは何も信じないことを信じている。自分が変わることを信じるなら、変わることを信じている。変わらないことも同様に。
変化があるか、変化がないか。
絶対的な差分がないなんてことはない。よって変化はあることを信じられる。同時に停滞も信じる。
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