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宗教信仰の自由は無い!新興宗教の家族への洗脳と子供への修行という名の脅迫強制と虐待問題(マインドコントロールされた2世信者の地獄)


昨今、エホバの証人や統一教会、創価、真如、幸福など多数の新興宗教が、修行の名の下に2世や3世信者への洗脳や親による子供への虐待、強制的な宗教への信仰が社会問題になっている。 基本的には親は教団に多額のお布施を霊や先祖や護摩など呪いや呪術的恐怖で高額なお布施を脅し、また教祖のイベントごとに高額なお布施を強要して家計はいつも困窮。 子供もは金銭的な収入がないので、お金以外の宗教への勧誘や朝昼晩と教祖へのお祈りや長時間の修行など現代では考えられない虐待も行われている。(例えば鞭打ちや輸血手術の拒否など命に関わる問題も)

宗教の2及び3世信者への親による強制的な宗教活動の実態は、以下のようなものがあげられます。

- 身体的虐待として、宗教活動への参加を体罰により強制する、宗教的行事に参加している中で叩く・鞭で打つ、長時間にわたり特定の動きや姿勢を強要するなどがあります¹。

- 心理的虐待として、言葉や映像・資料により恐怖をあおる・脅す、無視する・嫌がらせする、児童本人の自由な意思決定を阻害する、交友や結婚の制限のため脅迫や拒否的な態度を示す、童話・アニメ・漫画・ゲーム等の娯楽を一切禁止する、他者の前で宗教を信仰している旨の宣言を強制するなどがあります¹。

- 性的虐待として、教育と称し年齢に見合わない性的な表現を含んだ資料を見せる・口頭で伝える、宗教団体の職員等に対して自身の性に関する経験等を話すように強制するなどがあります¹。

- ネグレクトとして、高額寄付の結果適切な住環境・衣服・食事等を提供しない、医療機関を受診させない・医師が必要と判断した治療行為を行わせない、社会通念上一般的であると認められる交友を一律に制限する、適切な養育や教育機会の確保等を考慮せず様々な学校行事等に参加することを制限する、奉仕活動や宣教活動等の活動への参加のために養育を著しく怠るなどがあります¹。

以上のような宗教の2及び3世信者への親による強制的な宗教活動の実態は、児童虐待防止法の定める虐待の分類に該当するものであり、児童の安全を確保するために一時保護等の措置が必要な場合があります¹。


私たち無宗教のものから見ると信じられない事実でありますが、彼らや彼女ら宗教2世信者は物心つく前には信仰そのものがあり、親により強制的に洗脳されている不条理な環境下であり、このような虐待が異常とは思わず、むしろ家族が幸せになるために教祖の教義に疑いも持たずにいるということです。

それでは、2000年以上続く伝統的な宗教と最近の新興宗教の違いはどこにあるのでしょうか? また本来はどのように解釈理解をすればいいのか? 脳科学の視点から人間本来の生命としての活動や量子論から考察してみる。


新興宗教と伝統仏教の信仰対象のちがい

昨今、改めて新興宗教に関する問題が注目されています。人々が信じ実践する、信仰に共感する人々が集まるという点では、新興宗教も伝統的仏教もちがいはありません。
「宗教は信仰対象に基づいて定義される」とするならば、宗教の核心である「信仰」について知ることで両者のちがいを見つけられるとひらめきました。
改めて話題になっている新興宗教と伝統的仏教の信仰の違いについて考えてみたいと思います。

新興宗教の信仰対象は神秘体験


新興宗教は伝統的な宗教とは異なる信仰対象を持っています。
1970年代から80年代にかけて台頭した新興宗教の共通点として、個人の成長や自己啓発を人生の目的に掲げることが多くありました。
自己啓発の「手段」として神秘的な力や超自然的な存在によって人生を変えることを求める傾向があります。

自身の経験に基づく信仰

たとえば、
新興宗教の教祖との対面した後に現実になる
→「予言の通りになった!」
→教祖の神秘的な力や超自然的な存在を信じる

教団が主催する瞑想会に参加
→瞑想会の中で不思議な体験をする (先祖の霊や魂、怨念、幽霊など)
→神秘的な力や超自然的は存在を信じる (霊能力や呪術、スピリチュアルなど)

など、自分の経験が信仰に結びつくのが新興宗教の信仰のきっかけとなることが多くあります。

体験プログラムで信者獲得

また、1970年から80年代にかけて日本はいわゆる「バブル景気」の真っただ中でした。
そんな拝金主義の社会に疑問を持ち、個人の成長や自己啓発を求める人が多く存在した時代でもありました。

そのようなニーズに応じて、自己啓発やスピリチュアルな成長を目的とした教育プログラムを提供して信徒を集めることに成功した教団もありました。

体験をもたらす教祖が神格化

でも、ふつうに考えると… 「神秘的な体験」はそんなに都合よくできるものではありません。
そこで「神秘的な体験をもたらしてくれる教祖」の存在が大きくなります。

教祖(指導者)の教えを守れば、神秘体験ができる
→不確かな「神秘体験」や「超自然的な存在」があると断定する

教祖の教義を広めることが願望達成の一歩である
→「自己啓発」が教祖の教義を広めることに巧妙にすり替えられている

「神秘体験」が起こらないのは修行が足りないせい
→→「神秘体験」や「超自然的な存在」が起きないのは個人の努力不足とし、もっと教えに忠実であることを求められる…1.に戻る…
こういったことを繰り返され、はじめは自己啓発や個人の成長を望んでいた人たちがいつの間にか「教祖の教えがなければ達成できない」と思い込んでしまうのです。

本来、自己研鑽とは地道で時間をかけてようやく達成できるもののはず。
しかし、その長く苦しい道のりを「神秘体験」でいっきにワープできる!と言われたら?
置かれている境遇が苦しい人ほど、すがってしまいたくなるのは理解できなくもありません。

その結果、教祖や教団の極端な信仰にも疑問を抱かなくなり、ときに過激な政治活動や社会運動に発展していった事例もありました。

どんな宗教教団でも、信教の自由があります。
しかし、社会規範を脅かす信念を共有し、熱狂的に行動を実践する組織になってしまうといわゆる「カルト教団」ととなり社会を脅かす存在になってしますのです。

意図的に信徒の思考を奪う「洗脳」を行い、大きな事件を引き起こしたカルト教団がありました。もちろん平和的な活動を行う新興宗教も存在していますが、世間的には「新興宗教=カルト教団」のイメージが根強く残っています。

こういったことを繰り返され、はじめは自己啓発や個人の成長を望んでいた人たちがいつの間にか「教祖の教えがなければ達成できない」と思い込んでしまうのです。

本来、自己研鑽とは地道で時間をかけてようやく達成できるもののはず。
しかし、その長く苦しい道のりを「神秘体験でいっきにワープできる!」と言われたら?
置かれている境遇が苦しい人ほど、すがってしまいたくなるのは理解できなくもありません。

その結果、教祖や教団の極端な信仰にも疑問を抱かなくなり、ときに過激な政治活動や社会運動に発展していった事例もありました。


新興宗教とカルト教団


どんな宗教でも、信教の自由があります。 しかし、社会規範を脅かす信念を共有し、熱狂的に行動を実践する組織になってしまうといわゆる「カルト宗教」ととなり社会を脅かす存在になってしますのです。

意図的に信徒の思考を奪う「洗脳」を行い、大きな事件を引き起こしたカルト教団がありました。もちろん平和的な活動を行う新興宗教も存在していますが、世間的には「新興宗教=カルト教団」のイメージが根強く残っています。

平和的な新興宗教とカルト教団を区別して考えられるようにならなければいけないとも感じています。

伝統仏教の信仰は実践の中にある

続きは、会員サイトにて

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