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自分が主役の人生を生きる

「大学を出てまで、就職しないで恥ずかしい」

世間はそう言ったし、私も自分で自分を責めた。

私はダメな人間だ。人間失格だ。

自分1人で生活する力もなく、何かと理由をつけてはフラフラしていた。

あー、もう早くに死んじゃいたいなあ

20代そこそこの女の唯一持つ有限資産。

それは"若さ"のみだと思った。

この若さの資源がなくなった私は何も持ってない。だから市場価値がない。生きるしかばねだ。

情けない。

いつも結局何もできないし、何もやる気が起きない。

私は本当ダメ人間なのだ。ここまで頑張る気力がないと思うと、世の中で何らかの価値を生み出している他人と自分は、本当に同じ人間なのかとさえ思えてくる。

私は自分に失望した。

私は世間が求める普通をクリアできなかった。そして諦めた。これからまた、新たにゲームをスタートさせるなんて無理かもしれない。電源のスイッチを入れるのさえ億劫だ。もう疲れて疲れてしんどいのだ。

私はもう、頑張れない。

人生に生きる意味なんて本当にあると思ってるの

人生に生きる意味なんて本当はない。

幼稚園の時から大学に至るまで、事あるごとに「将来の夢」「キャリアプラン」を書かされた。

私はその都度、適当に適当な「将来の夢」を、とりあえず決めた。

「夢はいつか、きっと叶う」が代名詞のディズニーをよく見ていた私。気がつけば、夢を叶えることが人生なのだと自然と思っていたが、私が決めた複数の夢は1つも叶っちゃいない。

そもそも、それは叶えたかったものなのか、なんでそんな夢を持ったのかさえ忘れたし、今も分からない。夢は叶えるためのもの?

私はふと、思った。

どうして、私は生きているのだろう。

人生に意味付けをする意味

「何がなんでも意味のないことに意味付けをしたがる。これは現代に蔓延する一種の病気だ。」

これは画家のピカソが残した言葉だ。

そう、人は何でも意味付けをしたがる病に冒されている。

勉強する意味、働く意味、頑張る意味、生きる意味…

ただ昔は、食糧や住む場所を確保して生き延び、自らの子孫を残していくこと、これがそれぞれ人間に与えられた、生物としてのミッションだった。

私たちは豊かになりすぎた。

日本に生まれ、日本で普通に生活していれば、餓死したり住む場所が草むらになったりすることはたぶん、本当に稀だ。他国との戦争で、いつも他人から命を奪われる緊張があるわけでもない。

現代は豊かであるからこそ、飽和してしまったのではないかと思う。

意味がないことは、やる意味がない。

そもそも意味付けをすることは、主観だ。客観ではない。

他人にとっては意味のないことでも、自分にとって意味があると思ったことは、その時点でもう、自分の人生にとって意味があることなのである。

よく他人は自分の基準と違う人間を指差しして否定したがる。

それは自分の生きてきた、盲目に信じてきた価値基準に疑念を持ってしまうからだ。

そして、その疑念は本能的な不安を生み出す。

「私の人生、本当にこれでよかったんだろうか」

自分のために、自分が主役の人生を生きる

食糧に、住む場所に、日常における命の危機もなく困らなくなった私たち。

子孫を残すこと以外にも、自分を愛する生き方、パートナーと共に生きる生き方、様々な生き方を選択できるようになった。私たちは"愛"という形をどこへ向けても自由だ。それはもう、子孫を残すためだけのものではなくなった。

そんな豊かになった私たちに課せられたミッション、

それは、自分のために「自分が主役の人生を生きる」ということなのではないかと思う。

平和な世界でも、残念ながら、他人の人生を否定したり、自分への不満を他人の揚げ足をとったり攻撃したりすることで消化しようとする人たちがいる。そんなことをしても、彼らの人生が実ったり救われたりしないのに。

彼らは本気で自分の人生について考えたことがないため、その行為がいかに無駄であるかということに、気付くことができないのだと思う。

平和なのに生きづらい。豊かなのに生きづらい。

全く残念だ。

しかし、これは私の人生。

誰を登場人物に選ぶかも、私の自由なのだ。

私はそのことに気づけて、ある"呪い"から心が解放されたように感じた。

私は自由だ。

だからこそ、私が主役の人生を生きなければ。






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