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日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第四章3

しかもわれわれは思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることができる。だから思考を単なる主観的な活動であると解することは許されない。思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念をすべての他の概念と同じように作り上げるのである。思考する主観としてのわれわれが概念を対象と関係づけるとき、この関係は単なる主観的なものとは解されない。この関係を生じさせるのは主観ではなく、思考なのだからである。主観はそれが主観であるから思考するのではない。それが思考する能力を持つからこそ、自分を主観として表すのである。思考する存在としての人間が行う行動は、単なる主観的な活動なのではなく、主観と客観という両概念を超えた活動なのである。だから私の個的な主観が思考するのだとは言えない。むしろ私の主観は思考の恩寵の下に生きている、と言うべきである。このようにして思考という要素は、私を私の自我の彼方へ導き、客観と結びつけてくれる。けれども思考はまた、私を主観として客観に対比させることによって、私を客観からも引き離す。
 人間の二重の本性は次の点に基づいている。第一に人間は思考することによって自分と世界を包摂する。第二に人間は思考によって自分を事実と向かい合う個体にする。

〈命-4-3-1〉この関係を生じさせるのは主観ではなく、思考なのだからである。主観はそれが主観であるから思考するのではない。それが思考する能力を持つからこそ、自分を主観として表すのである。

シュタイナーの生きた時代には、言語上の主体や主観は勿論、実質的な位置づけも把握されずにいただろう。実質的に思考する力の源泉は「主格」にあり、主体、主観は、それに従属する能力と結果を見ている。実際、目撃されない「場」を言語的に概念化することは不可能だ。自論では、自分の主観とは、主体と主格の三つを併せ持つ、「主」のみと考えている。すなわち、(以下、本文につづく)

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〈命-4-3-2〉思考する存在としての人間が行う行動は、単なる主観的な活動なのではなく、主観と客観という「両概念を超えた活動」なのである。だから私の個的な主観が思考するのだとは言えない。むしろ私の主観は思考の恩寵の下に生きている、と言うべきである。

その恩寵が「主」の基にある「主格」であるといえる。

〈命-4-3-3〉人間の二重の本性は次の点に基づいている。第一に人間は思考することによって自分と世界を包摂する。第二に人間は思考によって自分を事実と向かい合う個体にする。

つまり、「個々の存在」を「個体」にする、それが「思考の第三段階」なのである。この認識の上昇を伴う思考がさらに「奥行の世界観」に誘う。主格として自分の世界を持ち合わせ、そしてさらに本質的な事実と対峙する世界に向かわせる、その思考方法が、『こころの立体モデル』の構造そのものなのである。

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 そこで次のような問いが生じる。「それでは一体、これまで観察対象と名づけてきた、意識の中で思考と出会うところの要素は、どのような仕方で意識の中へ入ってくるのか」この問いに答えるには、われわれの観察領域の中から、思考によって持ち込まれたすべてを取り除かなければならない。なぜならわれわれのその時々の意識内容は、常に多様極まりない仕方で概念と絡み合っているからである。
 そこで次のような心情を心に描いてみよう。完全に発達した人間知性を身につけた存在が無から生じて、いきなり今、世界と向かい合っているとするのである。そのような存在が思考活動を行う以前に見出すところのものが、純粋観察内容であろう。その場合、世界はこの存在に対して色、音、圧力、熱、味、匂い等の知覚内容の、互いに関連を持たない寄せ集めしか示さないであろう。快、不快の感情もそこには働いているかも知れない。このような寄せ集めが、思考内容をもたない純粋観察の内容である。このような観察内容に対して、思考はそのためのきっかけが見出されるや否や活動を開始しようと待ち構えている。そしてそのようなきかっけが見出されることを経験がすぐに教えてくれる。思考は一つの観察要素から別の観察要素へと糸を張りめぐらす。そして観察要素に対応する概念を結びつけ、それらをひとつの関連の下にもたらす。そのようにしてわれわれが耳にする物音を他の観察内容と結びつけ、その物音を別の観察内容の結果と見做すことができるようになる。

〈命-4-3-4〉純粋観察内容について。

純粋観察内容を、観察と思考のマッピングにより解説する。

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思考の第二段階、思考過程には「概念化」から「概念」構築がある。

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純粋観察、純粋思考とは

純粋観察とは、純粋思考と共に働くが、その基となっているのは、「格」である。「格」とは水準を現わし、意識の反応する元となり、感情の表出する源泉でもある。この部分が、突然出現して、立体モデルの「観察面」ならびに「思考面」の両面をはじめて刺激するその瞬間、それを便宜的に「純粋」と呼ぶのである。

それが、思考面において「純粋思考」、観察面において「純粋観察」と呼ばれる所以である。

シェーマ的なもう一つの解釈は、初めに『観察面』のみがあり、『思考面』が回転して生じたというものだ。これは思考の第一段階から第二段階へ移行する場合と同じである。

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いずれにしてもこの段階から実質的な考察をすることになるとしたら、それは『格』の面が出現しているにしろ、しないにしろ、考察の手順に変りはないだろう。


第四章4へつづく








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