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日めくり5分哲学『自由の哲学』を読む 第一章1


少し「あたま」を使って
命題について思索する5分間、
ホントの自由とは、何か…

第一部  自由の科学


第一章 人間の意識的行為

 人間の思考と行為は自由であるのか、それとも必然という鉄の掟に縛られているのか。この問いくらい多くの鋭い洞察力が向けられてきた問いはめったにない。自由の理念は、数多くの熱心な信奉者と共に、数多くの頑固な否定論者をも見出してきた。或る人々は倫理的な情熱をかけて、自由という明白すぎるくらい明白な事実を否定できるのは、偏狭な精神の所有者以外には考えられない、と言明する。一方別の人々は、自然の合法則性が人間の行為と思考の領域の中では例外的に通用しなくなると信じようとすること以上に非科学的な態度は考えられないと思っている。つまりまったく同一の事柄が、一方では人類最高の財宝であると見做され、他方ではひどく間違った幻想とされている。一体、どのようにして人間の自由は自然の働きと折り合いをつけているのか。人間も同じ自然の一部分なのではないのか。この点をめぐって、数限りない議論が闘わされてきた。そして他方では、折り合いがついているかのような妄想がどうして生じ得たのかを明らかにする努力も、熱心になされてきた。

<命-1-1-1>人間の思考と行為は自由であるのか

<命-1-1-2>一体、どのようにして人間の自由は自然の働きと折り合いをつけているのか


ここには人生と宗教の、そしてまた認識と実践の最も重要な問いの一つが提出されている。そのことを、どんな人も感じ取ることができる。しかし首尾一貫した態度をとろうとしない人は別である。実際、現代の思考方式のもつ浅薄さを悲しいまでに表現している場合も見られる。例えばダーヴィト・フリードリヒ・シュトラウスの『古い信仰と新しい信仰』は、近年の自然科学研究の成果に基づくひとつの「新しい信仰」を打ち立てようとしているのであるが、この書物はわれわれの問いについて次のような一節以外の何も示してはくれない。——「人間の意志の自由の問いについて、ここで立ち入った検討を加えようとは思わない。いわゆる公平な選択の自由は名をあげるに価するどんな哲学によっても、常に実態のない幻想と見做されてきた。人間の行動や信念の倫理的な価値は、このような意志の自由の問いとは無関係なところで定められるのである」。——


第一章2へつづく

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