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『愛の美学』 序・番外編


序・番外編

先日、この noteマガジン『愛の美学』アップした。ところが、ダッシュボードの記事一覧に今まで目にしたことのないアラートが挿入されてきた。これはいったいどういうことか?

この経緯については、まったく『愛の美学』とは無関係と思われるが、『note』という媒体で表現するにあたり、その内容の公への配慮、いわば公序良俗に関する見立てを自分なりにまとめるため、番外編を設けた。

この重要な命題、『愛』を表現するために必要な倫理を、自らが検証する方法を思索する。今回のことをきっかけに、『倫理』以前の『人倫』についても触れていくことにする。

1) 18禁という縛り

ことの起こりは、記事を書いて一夜明け、新たに編集しようとダッシュボードの記事一覧を開いたときに起きた。

先日アップした記事覧に見慣れない表示があった。

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は~っ?18歳以上向け??この記事は、サブタイトルの「エロメンタル」の考察で、ハッシュタグを「#エロ」と出したからだろうか。

※この件については、後日調査を行い、「#エロ、#セックス、#エロス」などの語彙を掲げると全て「18禁」の対象になることが分かった。

「エロス」の命題として、俗語の「エロ」を使ったことが、このような検疫に晒されるとは思いもよらず、正直面食らった。

また、…のタグをタップすると、いつもは出ない「18歳以上向けではない」という欄が追加表示されている。

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そこをタップするとコメント欄に、記事が18禁ではない理由を記載できるようになっていた。

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ふ~ん、妙に関心すると共に、なにかもやもやとした気持ちの澱(おり)が沈んできた。

しかも、覧外に「申請された内容をもとに審査させていただきます。必ず修正されるわけではないことをご理解ください。」とある。

審査・・・。

2) 審査の信憑性は?

この『愛の美学』の配信は、半ば衝動的にはじめたといっていいが、自分にとっては、極めて深い命題だし、いつ始めてもいいと思っていた。

そして、内容については、散文形式やエッセイのように読みやすく、小学生でも分かるような、簡単で面白い内容にしようと思い、表現のハードルをかなり下げている。(この後、格調高くすべく少し表現を変えているが・・・)

それによって、前回の記事は『エロ』部分が出すぎた帰来もある。だが、『エロ』という言葉にここまで触発されるご時世とは、いかなるものか。

今の心境は、あきれ半分、興味半分だが、不特定多数の人の目に触れる「note」のような媒体では、思慮すべきことだろう、とはおもう。

自分は、『8時だョ!全員集合』のテレビ世代。加藤茶の「ちょっとだけよ~、あんたも好きね~」という決まり文句が小学生時代も人気だった。

そして、この演出には、当時も賛否両論沸き上がった。今でいう炎上。その頃は「エロ」より「ピンク」の方がより「エロ」感を醸し出していた。「ピンク映画」とか「ピンサロ 」などだ。

ここでは、時代背景を語る文芸評論は趣旨ではないから、これ以上探求はしない。しかし、この一抹の澱の本性を見定めることは大切だ。

一体なにをもって、この記事が「18禁」と言えるのか、そして、いつも思うのは、審査する側の適正に評価する権限という点だ。

「note」の取り組み自体に盾つくわけではない。これはむしろ、好ましいシステムだ。ただ、適正な評価をどのように担保するか、という疑義が常にある。これは、審査員に向けた問い掛けでもある。

また、今回の件で、言い訳めいた理由のコメントはしない。理由は単純で、このコンテンツが「18禁」であっても良いからだ。

しかし、このように投げかけられた「問い」に対し、自分なりに納得のいく回答を出したい。自分のこころに正直にこころの底に沈む澱を見つめていく。

3) 広告の氾濫

実は、「note」にブログを移した理由は、氾濫する「エロ」系の広告だった。

いまでも過去のブログには見たくもない広告が出ているはずだ。

「note」には、このような広告がない。これは素晴らしいことだ。そしてとても画期的だ。とくにクリエイターに配慮した取り組みだと思う。

そして「note」の存在を知り、ついにブログを閉鎖した。以下のような文章を残して。

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これは、ブログ運営者の「美的感覚」が問われる。自分にとって、このような広告が、精神衛生的にストレスになっていた。

何度かメールで抗議したが、前向きに取り組むという曖昧な対応で終始スルーされた。

ブログのサービス媒体は広告収入で成り立っていることも分かる。しかし、広告は削除してもまた新たな広告が出現し、広告範囲が拡大され次第に画面が狭くなり、動画広告の登場でさらに画面が縮小した。

このときは、「怒り」に似た心境だった。

上に記したように、当時の心情が窺える。一番下の広告が、徐々に拡大されていった。そしてなによりも「気が散る」。今気づいたが、広告の宣伝文句が「止めるな」とはシャレにならない(笑)。

そしてこのフォントもそうとうデカい。っていうか、本文中のフォントよりもでかい。こんなものが表示されたところに、ちまっとした記事があっても、鬱陶しいばかりでなく、そもそも記事に目が行かない。

文字の媒体だけでなく、写真や漫画を描くクリエイターもいる。そういった作品に、この広告は壊滅的な打撃を与える。この携帯のフレームを額縁と考えると、とんでもなく暴力的で下品で破廉恥な仕組みに思える。

そして、最近では性的暴力を描写したコミック広告はエスカレートする一方だ。これには目に余るものがある。

そもそも、国家的なIT戦略でPCなど小学生を対象に推奨しているわが国で、全く広告の制限がされてないブログなどを運営する数多くのサービス媒体やプロバイダーの指向をどう考えるのか。

そんな中で「note」の取り組みは公序良俗を視野に入れていると言える。そして、良質のコンテンツを提供しようとする意欲が汲みとれる。

また、『品の正体』にも記したが、一種の「品位」を保つために、自分はこの「note」という媒体の取り組みに賛成する。

しかし、心の澱はなぜか消えない。

この『番外偏』は、コンテンツを通して見える「18禁」というキーワードから、何を以てそれを適正に判断評価するのかという問いかけであると考えている。

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おそらく、『愛の美学』序、を初回ご覧になった方は、このようなアラートが出たはずである。

このアラートが、一つのテーゼである。

大人が敏感にならなければいけないことは、何か。ここでそれが何かを示しておこう。

そのテーゼとは、『性』と直面し、その印象をもう一度整え直すことだ。

そして『性器』についても、生理学や解剖学的な理解のほかに、大いなる神の創造の証であり、最も『愛』とのつながりを保つ、健全な形であることを再認識すること。

「性」に対して、見ざる、言わざる、聞かざる態度は、創造物として敬意を払うべき形を覆い隠し、見るべきものを見ず、言うべきことを言わず、聞くべきことを聞かなくさせる。

そうしているうちに知るべきことを知らないオトナが出来上がる。その知とは、明らかに猿には必要のない知だが、少なくとも人間には必須条件となるはずだ。

その知の本質は、覆い隠された人間の自我。またこの自我は、『恥』や『罪』と関与してくる。

自らの自我を覆い隠し、その価値も意味も真実も語れないこの状態が、自分自身の心の澱と感じているのだ。

このようなことにむしろ『オトナ』が実直に取り組まない限り、『18禁』を言い訳にその取り組みから逃れようとする。それは自分自身の『恥』や『罪』に対する放擲(ほうてき)な態度として現れてくる。

この、澱の原因を、これから記す『愛の美学』で解き明かしていく。

今、手伝ってくれる『猫』の手を探している。note にこの『猫』を紹介してもらおう。自らの目を覆い隠すだけでなく、むしろその手で真実を知るべきだ。

本当の『公序良俗』の意義を。

ちなみに、「序」とは、織機に張った縦糸を交互に開いた間に、横糸を通して布を織る用具の杼(ひ)の形であり、順序を追って杼を通すことから「順序、ついで」の意味となり、秩序のように用いる、とある。

つまり、公序とは公の順序や秩序を表している。

言い換えれば、「18禁」に与える秩序観とは何か、ということでもある。これは、自分なりの理解だが、「18禁」であれば、それでよいというわけではなく、人倫としての良俗とは何かを示す必要があるということだ。

このことも『愛の美学』本論の命題に加えることにしよう。

はじめに、躓いたように感じるが、むしろこれは幸先の良いスタートだろう。身近なことから、より深い「愛」の学びができれば何よりである。

次回から、本題に入るが、やはり、「倫理」「道徳」は「徳」に基づく格調が求められることを今回改めて感じた。

考えれば、その主体である「愛」を語るには、格調高くあるべきであり、文体の姿勢を整えることで、より美しさを増すだろう。

ということで、次回、『愛の美学』エピソード1『愛の弓矢』、格調高く始めていく。

※このマガジン『愛の美学』に連載されている他の記事はこちらから

追記

先日、一応18禁ではない理由を記載してみた。すると10日後に18禁というアラートは消されていた。ちなみにコメント欄に記載した内容を以下に記す。

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つづく


ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んで頂いたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことです!マガジン内のコンテンツに興味のある方はフォローもよろしくお願いします。