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思いつきとSNS

かつて、ツイッターが誕生したとき、「あっ、これは可能性がある」と思ったのは私だけではないはずだ。

その前はブログ文化全盛で、とにかくコードを書いたり、引用のところだけ歌の大きさを変えたり、なかなか記事を作るのも大変だったし、ミクシィは友人限定にしたりすることが多かったので、なかなか広まらなかった。

ぼくも喜び勇んでツイッターを始めたのだけど、「これは革新的だ」と思ったのは、「まだアイデア未満の思いつきをつぶやいてもだいじょうぶ」

ということだったかもしれない。そう錯覚させるだけの可能性と自由さがツイッターにはあった。

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ところが長くやっていくと、とんでもないことがわかってしまう。

ツイッターでTLを見ている「読者」にとっては、「思いつき」なのか「本気で言っているのか」はわりとどうでもよかったということだ。

ぼくの身の回りの人たちにも、「炎上」が増えていく。大きかったのは加藤治郎さんの件だろうけど、「こっちは思いつきのつもりでゆるくつぶやいてる」つもりでも、他のユーザーからみると「公言」になってしまって、「けしからん」みたいな風潮になっていくようになる。これだと影響力の大きい人にとっては「デメリットしかない」から、だんだんツイッターアカウントを閉鎖する、という人が増えてきた。

ぼくもこのあたりからもうツイッターはもう限界かなと思っていた。実際こっちがおもいつきで好きにつぶやいているつもりでも、相手からいつ「危険発言と判定」されているかわからない。

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さらにこれにぼくだけの問題かもしれないけど、ミュート機能の追加が加わる。

ツイッターって、どうしてもコミュニケーションツールの側面があるから、それが「アカウント」にすぎないとわかっていても、その背後には「友だち」というひとりの「人間」を見てしまう。

同じ短歌会の人など、付き合いでフォローしているのだけど、「その人のツイートが自分のタイムラインに上がってこないようにミュートする」なんてやり方が出来てから、「誰がぼくのTLを読んでくれているのか」解らず、疑心暗鬼に陥いるようになった。

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そもそもタイムラインを中心に読むというやり方は、僕みたいなSNS素人がよくやるやり方かもしれないけど、こっちはその人の発言を見ているのに、向こうはミュートしている可能性もあるなんて信じられない。

ぼくはミュート機能は最後まで使わなかったけど、多くの人がぼくの発言をミュートしてたかもと思うとゾッとする。

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あとは「なんでもツイッターにつぶやけば解決」みたいな人たちも増えた。

ぼくは基本、タイムラインをブロックしなかったのだけど、「最初冗談だろ」と思っていたことを割合本気で信じている人が多いことに唖然とした。

「え、まだ野党に可能性があると思ってるの?」
「え、こんなに日本の戦争責任を認めない人っているの?」

ぼくは野党も与党も嫌いな無党派だったから、政治的なツイートが増えた時点でもうツイッターを使うのを辞めればよかった。

そもそも、「政治にどんな意見を持っているか」なんて「その人の人間性」にくらべればとるに足らないことだ。文学者であるにもかかわらず「政治のことば」に巻き込まれるなんて、なんて体たらくなんだろうと思った。

(うちがかつて所属していた欄は、おそろしいことに飲み会の席で「野党共闘」の話とかをふつうにするくらい、「左翼っぽい」飲み会だったから、リツイートで「またか」というテンプレ政治ツイートが回ってくるたびに幻滅した) 

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あとは「死にたい」人。一応身近なフォロワーが「死にたい」というと、ぼくは心を痛めたし、「死なないでくれよー」と思うわけだけど、ツイッターならなんでもつぶやけると思って、安易にツイッターにSOSを流す人が多すぎると思った。

こっちは心配するじゃん。

そういうのを毎月5件も10件も読むことになる人の気持ちとか、この人考えてないのかな、と思って、最初は知り合いならそのたびに対処していたけど、あるとき急に馬鹿らしくなった。

それを全体に公開している時点で、変な話「ぼくからの返信なんて期待していないのだ」とわかった。

ほんと誰でもいいのだ。誰かが声をかけてくれるのを待っているのだ。

このコミュニケーションには、「ひとりの人ときちんと向き合う」
というもっとも大事な前提が欠けていると思う。

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もうツイッターがほとほとイヤになったし、「ツイッター上で波風を建てないように行きていく」のがぼくのあり方みたいになったとき、ぼくはメンタルもかなり悪かったので、「こんな状態になってまでツイッターをやってられない」と思ってとうとう辞めた。

ぼくは結局、ツイッターでブロックもミュートもうまく使えなかったし、使うたびに罪悪感を覚えたから、気に食わない人を認定していちいちブロックしていくよりは自分が抜けたほうがましとおもって辞めたけど、最終的にはそれがとても良かったのだと思う。

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そもそもぼくの文章はタイトルとかはすごくキャッチーに作ったり、なかには過激なことも言うけれど、200字みたいな「ワンフレーズ」でウケようとする態度とは全然違う。

過激な事を言っているように見えるけど、それは「本文」を読んでもらいたいためのキャッチーな「引き」のためのフレーズだったりすることも多いので、結局文章を書く過程で根拠を明示するなり、バランスなりをとっているようにしていると思う。

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いま、ツイッターばっかりやってる人が多いらしくて、文章を書く「愉しみ」をなくしているような人も多いと思うけど、

みんな大丈夫なのかな。

文章を書くのは「人のため」というよりも自分のこころの整理にもなるし、おもいつきをアイデアへ「固める」ための道具にもなる。

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ぼくはいま、だれが見に来てくれるかわからない、辺境のnoteで、毎日毎日自分の思いつきを言葉にしていて、いいねの数も気にしてない。

noteはそれが可能だから、ありがたい「ブログサービス」だと思っている。

ほんとツイッターのように「読め」と勝手にタイムラインにあがってくることもないし、「コミュニケーションをとらないといけない」というプレッシャーは確実に減った。そもそも告知もしないから、身近なフォロワーさん以外は書いてることすらもバレないのではないか、と思っている。

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人それぞれだけだと思うけど、ぼくはリアルタイムSNSは金輪際やらないと思う。

ほんとはなんかまた短歌界隈で炎上しているような雰囲気らしくて、それについて触れたいと思ったのだけど、

(ていうかぼくは自分の同じ結社の人がとったある言動に「本当にがっかりしている」)

わざわざここからぶちこむのも無粋だから、今日はやめとく。

気が向いたら書きますー。

あと、戦争の話もね。

なんかヘビーな話題がおおすぎて最近息抜きの方法を探している。



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