たぶん、いつのまにか、と思いながら死んでいく。
思えば遠くへ来たもんだ。
陽の落ちかけた公園で、縄跳びする娘をベンチに座って眺めながら思う。
上の子を産んでもう10年になるけれど、未だに母親である自分に慣れることはない。
これまでの人生、なんて言うと大袈裟だけど、要はハイライト。ふと思い返す自分は学生時代や結婚前の思い出のなかにいて、子どもが生まれてからのことをイメージしようとすると、どうしても主観になってしまう。目に映ったものだけの風景。本人不在。
たぶん主観で見る子どもたちが素晴らしくて眩しくて可愛くて、それ以上のことは覚えておく必要はないと、私の脳は判断したのかもしれない。私の意志とは別のところで。勝手なものだ。
私の目は子ども専用のカメラになってしまって、私自身の人生を写すものではなくなった。私だけの人生の針は、あの頃で止まっている。その不思議な感覚を無理矢理ことばにするのなら「幸せ」なのだろう。
「自分以外のものを自分のことのように思うこと。あるいは自分のこと以上に」という新しい注釈が私のなかに加わった。
手の皺が増えていくように、年輪を重ねていくように、自分だけの注釈を増やしていく。
前跳びも後ろ跳びもスムーズになった娘と、二重跳びの自己新を目指す息子の笑い顔を見ていると、頭のなかで「そういうもんなんだよ」という声が聞こえた。
子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!