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袋小路の恋|7【小説】



 光が届かない海の底は、どのくらい暗いだろう。
 何を頼りに泳いで、何を頼りに息をするのか。
 塗りつぶされた世界にも、掬い取れる余白はあるのか。
 沈んでく。一緒ならばこのままで構わない。
 唇を合わせたときだけ、息ができる。
 どうせ見えないのなら、眼は閉じたままで。


 日が暮れた外の世界から、さらに深い闇が満ちた部屋に入ると、ダイスケはすぐにサエを抱いた。言葉なんかなくてもいいと思った。名前を呼んでもらえなくてもいいと思った。絡まる指と、息をする音。汗ばんだ肌の感触と、生ぬるい体温。手を伸ばしてダイスケの髪に触れる。肩をなぞる。欲しい。いらない。ぜんぶ欲しい。何もいらない。これはほんもの?ほんとうは、なに。

 声を奪われてしまったみたいに、ひとことも言葉を交わさなかった。思い返してみればそれはおかしなことだったかもしれない。でもそれに気づけるほどの余裕はサエにはなかったし、実際言葉なんていらなかった。

 目を覚ますと隣にダイスケの姿はなかった。部屋は暗いままだったけれど、見回すとダイスケの机の上に載ったデジタル時計が小さく光を放っている。午前2時過ぎ。サエはタバコのにおいがすることに気がつく。暗闇の中に蛍みたいなオレンジ色の光が浮かんでは消える。目を凝らすと床に腰を下ろしたダイスケと、白く燻る煙が見えた。部屋の暗さに目が慣れて、ハッキリと輪郭を捉えられるまでじっと見つめていた。でもダイスケがいるあたりだけずっと窪んだように闇が濃い。

 下着をつけて、ノースリーブのワンピースを頭から被って、ゆっくりとダイスケに近づく。隣にしゃがみこんで言う。「一本、もらっていい?」声がうまく出ない。
 ダイスケは動かない。サエはダイスケの横に置かれた箱から自分で一本取り出し、「もらうね」と言ってライターで火をつける。スー、っと肺に吸い込むと、胸が詰まるような感じがしてすぐに咳き込んだ。それを見て、ダイスケは微かに眉を下げて「大丈夫?」と呟く。
 「久しぶりに吸った」
 咳き込みが落ち着いてから答えると、ダイスケは心なしか口元を緩める。胸が苦しいのは、いつぶりかもわからないタバコのせいかもしれない。ダイスケはタバコを咥えたまま壁にもたれて天井を見上げた。 

 「忙しい?最近」
 同じタバコを吸って、同じにおいをさせていたからといって、なんになるというのだろう。
 「もうすぐ夏終わっちゃうね」
 ダイスケは何もないところを見ていた。何もないところに、サエの見えない何かを見ているようだった。私はダイスケとは全然違う場所で、届くはずがないところに手を伸ばしているのかもしれない、とサエは思った。
 「どっか行きたいな。お祭りとか」
 隙間を埋めるように、言いたくもないことを言う。
 「無理だよね。忙しいもんね」
 二筋の煙がゆらゆらと天井に昇る。それぞれに、昇る。
 「ミノルはさ」
 ダイスケが唐突に口を開く。
 「いいやつだから」
 短くなったタバコにサヨナラを告げるみたいに一口吸って、傍らの灰皿にタバコを押し付けて火を消す。
 「大事にしてやって」
 ダイスケの低い声が漏れる度に、サエは微かに動く喉仏を見た。灰を落とす度に、繊細な指先を見た。ミノル?どうしてミノルの話になるの?喉元までせり上がった一言を、吐き出すことはできなかった。背筋に冷たい足跡がつけられたような感触と呑み込んだ言葉に胃が重くなる感覚で、サエは頭を働かせることができない。ただ、暗闇に浮かぶダイスケの横顔が絵画のようだと思った。

 沈黙を止めたのはダイスケのスマホの着信音だった。10秒くらい、鳴っていた。切れたあとにまた、短く別の音が鳴る。サエは時計を見る。午前2時40分。
 「いいの?電話」
 ダイスケはもう一本タバコを取り出し、立ち上がって火をつけながら机に置かれたスマホを手に取る。光る画面に照らされて、眉間に寄った皺が見える。苛立たしげに、忙しなくタバコを吸って、吐く。
 「仕事?」
 サエは白々しく訊く。こんな時間に?まさか。
 再び、一回目の着信音と同じ音が鳴る。
 「何?」とぶっきらぼうに言ったきり、ダイスケはスマホを耳に当てたまま黙っている。タバコを咥え、空いた手で机に置かれた灰皿を引き寄せ灰を落とす。
 「…ちょっと今は、無理」沈黙を息継ぎするみたいにそれだけ言うと、相手の話が終わるのを待ち、電話を切った。
 
 どれくらいそのままでいたのかわからない。もう二人ともタバコは吸っていなかったし、つけっぱなしの冷房で剥き出しの肩が冷たくなっていたけれど、カーテンの向こうはまだ真っ暗だった。
 「わりぃ、今日はもう、帰ってくんない?」
 言葉が宙に浮かんでいるようだった。用心深く咀嚼しないと、それが自分に向けられたものだと理解することができなかった。
 「もう電車ないよ」
 かろうじてそれだけ言うと、「あー…じゃあタクシーで」とダイスケは容易く打ち返した。机の上の財布から数枚お札を抜き取り、差し出す。
 サエはまだ、注意深く、ゆっくりと思考を巡らせるようにした。状況を素早く理解することは、避けられたはずの弾に当たりに行くということだ。先回りして自分を守ることは、自らナイフを受け止めているということだ。

 こんな時間でも、大通りに出れば明るいし車もたくさん走っている。タクシーと大型トラックばかりなのが、今が夜明け前だということを教えてくれる。
 「帰ってくんない?」
 ダイスケの声が体の隅々まで反響する。すれ違うトラックのライトに照らされて溢れた涙が堤防を決壊させる。必死に遠回りさせていたはずの理解が押し寄せる。涙と鼻水で顔がベタベタで、ティッシュを取り出そうとカバンを開けたらスマホが光っていた。
 ミノル。ミノルからのLINEの通知を見てサエはまた泣いた。ミノル。ミノル助けて。でもサエはLINEを開くことができない。通知を見つめたまま、サエは深夜の国道に立ち尽くした。ダイスケの声がまだ体内でこだましている。

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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!

ありがとうございます!ポテチあげます!
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閉じ込めるしかなかった想いを成仏させたくて言葉を吐き出す日々。誰かの物語は自分の物語でもあるし逆もまた然り/20代前半に演劇かじる。結婚前はPR関係のお仕事を少し/noteではコンテンツレビューやエッセイや小説を/note【紅茶のある風景】コンテスト入選

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