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察してくれよと言う人

私はある出来事があって以来、「察してくれよ」という空気を出す人、またはそれを口に出して言う人が苦手なのだが、誰だって「察してくれよ」という圧をかけられて嬉しくはないだろうと思う。

にもかかわらず、世の中では「空気を読む人」「相手の言わんとすることを言われる前に察する人」というのは高く評価される。

つまり、自分では察したくないけど、人からは察してもらいたい、というのが私たちだ。自分ではできないこと、やりたくないことをやっている人は尊敬される。例えが悪いかもしれないが、自分ではゴミ拾いのボランティアをしたくはないけど、やっている人を見たらすごいなあ、感心だなあと思うのと同じだ。

私自身は、あまり自分の考えを先回りして気を使われるのは実はそれほど嬉しくない。そんなに気を使わないでよと思ってしまう。それより何より、「言わなくても察してくれよ」などと言われると「こっちが察しなくてもいいようにそっちがはっきり言ってくれよ」と思ってしまう(実際に口に出したこともある)。

テレパシーが通じるわけでもないのに、言葉という便利なものがあるのに、お互いに言葉に出さずにコミュニケーションを取ろうというのは無駄ではないのか。

いつもそう思っていた。

自分は察したくないし、察してもらうことを要求した覚えもない、と。

しかし、ある時分かったのだ。私自身も「察してちゃん」なのだと。私は言いたいことが多すぎる時は早口になってしまうタイプで、早口になればなるほど言い間違いも多くなる。

言葉を文字通りに受け止めるタイプの人だと「え?それって〇〇じゃなくて△△だよね?」と、話の途中でも遮って指摘される。

そんな時、私は「いや、どう考えてもこの話の流れだと言い間違えじゃん。なんで〇〇やねん!△△に決まってるやんけ(関西漫才が好きなだけの名古屋人です)」と心の中で思ってイライラする。

イライラしている心の中は、言葉に出してまで表現しているつもりはないが、察しの良い相手だと私がイライラしていることが伝わる。

こうしてめでたく「お互いに察し合っている」状態が出来上がるわけである。私たちはつい、会話し慣れた相手だと「これくらいの言い間違いは相手が自動的に正しく読み替えて理解してくれる」と期待してしまっている。しかし、間違えたのは自分なのだから、悪いのは自分なのだ。(中には分かっていてわざとあげ足を取ってくる輩もいるが、そういう人とは自然と疎遠になる運命なので例外である。気にしなくて良い。)

察して欲しい、という空気を相手から出されることを死ぬほど嫌悪していたのに、何を隠そう、察して欲しがっていたのは私自身だったのである。


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