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並々ならぬ日々が始まる予感

コブ山田です。

ようこそいらっしゃいました。

今回は、プロ野球中日ドラゴンズ監督の立浪和義さんについて、記します。

※公開日とヘッダー画像の時系列が逆転していますが、2022年03月にヘッダー画像を追加しました

2021年10月、プロ野球中日ドラゴンズは退任した与田剛監督の後任として、立浪和義新監督を発表します。


私も、いつか絶対に監督になる人物だとは思っていたので、うれしく感じたというのが正直な気持ちです。
1988年に新人王を獲得、その年にはリーグ優勝をしています。ずっとレギュラー選手として出続けていました。
私はその1988年辰年生まれ。故郷には立浪に憧れる同級生は多く、私も現役選手時代にユニホームを買って大切に保管してあります。

私が初めて観た試合(1996年)のオーダーを見ると、3番セカンドでスタメン出場でした。
2001年の後半から徐々にセカンドのスタメン出場が減り、代わりにサードのスタメン出場が増えます。
2006年の07月からは代打起用になります。荒木雅博、森野将彦にポジションを奪われた形です。

私の印象では立浪和義は内野手、セカンドの名手です。私が小学生の時までがセカンド。プロ野球中継をよく見ていたことが大きいです。

しかし、2001年までずっとセカンドを守り続けていたわけではありません。

1998年の開幕戦、2番バッターはセカンドを守りますが、久慈照嘉がそれを務めました。
3番レフトで立浪が起用されます。

これは、前年の1997年に立浪はセカンドのレギュラーとして出場し続けるも、移転したばかりのナゴヤドームに適応できず、チームは最下位に沈みます。
そこで、星野仙一監督は守備力の強化に着手。阪神からトレードで久慈照嘉を獲得し、開幕からセカンドのレギュラーに抜擢します。
立浪は玉突きの形でレフトへ。レフトを守っていた山崎武司はファーストへ。ファーストを守っていた大豊泰昭は阪神に移籍しており、ちょうど収まったのでした。

立浪は06月まではレフトで起用されるものの、ショートを守っていた李鍾範の戦線離脱で久慈がショートに回ったため、立浪はセカンドに戻ります。
李鍾範についての記事を書いたこともあります。よろしければご覧ください。

07月にはオールスターゲームがあります。ナゴヤドームは開場02年目で初開催となりました。
そのこともあってか、ファン投票のセ・リーグ外野手部門1位は立浪でした。松井秀喜や高橋由伸、鈴木尚典を抑えての1位です。
オールセントラルの監督は、9番バッターで立浪を起用します。ポジションは、レフトではありません。

セカンドでした。

立浪の自叙伝『負けん気』の129・130ページに記述があります。

野村さんが「立浪はセカンドだろう」という思いを持っていたのだとしたら、長年セカンドを務めてきた私としてはうれしいものがある。

立浪は星野仙一・落合博満両監督どちらの影響が強いのか、という議論はよく見ます。所属した中日ドラゴンズの監督であり、このふたりの名前が挙がるのは自然なことです。主力選手として優勝も複数回しています。
しかし、私は、オールスターゲームセカンド起用エピソードは立浪の人生に大きな思い出として残っており、ヤクルトスワローズ野村克也監督インスパイアの采配も見せてくれるものと思っています。

他にも多くの人が感じていることだとは思いますが、私からも文字にさせてください。

野村克也監督。2022年のプロ野球レギュラーシーズンが始まります。1998年、ナゴヤドームにてオールセントラルのセカンドで先発起用した立浪和義選手は、2022年から中日ドラゴンズの監督になりました。
奇しくも、読売ジャイアンツがレギュラーシーズン初陣の相手です。打倒巨人に燃えていましたね。きっと、穏やかな表情で見ていただいていることでしょう、

野村克也監督と同じ背番号の数字である、73を。

ありがとうございました。

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