アジール
久しぶりに地元の温泉に入った。
お湯本来の気持ちよさを超えて、何かこみ上げるものがあった。
数年前のわたしにとって、そのお湯はひとつのアジールだったのを思い出す。
そこがアジールになり得たのは、そのお湯に浸って目を閉じてる瞬間は、何者でもなくなり、人間でもなく、生き物ですらないような感覚をもてたからだと思う。
暖かい液体に揺られ、湯と身体との境界線を溶かして、ただ小さな波の揺らぎだけを感じてるとき、肉体が肉体として存在する限り付き纏うであろうアクのようなものが、サーっと流れていくような気がした。
「何者でもなくなる」
こんなこと、当時会社を辞めてからどこにも属さずフラフラと勉強してた私が言うなんて、誰かが聴いたら笑ってしまったかもしれない。
それでも、そんなニートなわたしでも、「何者でもなくなる」瞬間は必要だった。
何者でもなくなって、純粋なる意識の状態だけになるとき、人は疑似的に死を経験してるのかもしれないなとも思う。
女性である私
アラサーである私
人を元気付ける私
自由に生きる私
瞑想好きな私
◯◯受験を控えてる私
◯◯というプロジェクトに関わる私
娘である私
妹である私
誰かの彼女である私
誰かの親友である私
誰かの知り合いである私
◯◯卒の私
元◯◯勤務の私
ヒッピーに会ってきたばかりの私
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etc
生きていると、たとえどんな立場にいようと、たくさんの関係性が生じていて、それぞれに役割が期待されている。
その役割の中に生きがいはあったりする一方で、その役割期待にばかり囚われて本来の魂の煌めきみたいなものを見失うときもある。
だから、何者でもなくなる必要がある。
人のあらゆる期待を解く必要がある。
そんな意識の状態をもてる場所だったから、その温泉はアジールとなったのだと思う。
そんな意識の次元が、生きづらさを抱えている全ての人に、あるいは生きづらさなんて微塵も感じてない人に、いつでも還れるところとなりますようにと願う。
そしてわたしも自分のアジールを見失わないよう、また育んでいけるよう、定期的にその意識の次元に足を運ぼうと思う。
※アジール(wikigedia引用)
アジールあるいはアサイラム(独: Asyl、仏: asile、英: asylum)は、歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリアのことを意味する。ギリシア語の「ἄσυλον(侵すことのできない、神聖な場所の意)」を語源とする。具体的には、おおむね「統治権力が及ばない地域」ということになる。現代の法制度の中で近いものを探せば在外公館の内部など「治外法権(が認められた場所)」のようなものである。
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