死ぬときってこんな感じ?
スイスに1年滞在する例のアレの出発日が近づき、締め作業のような日々を過ごしています。
といっても、数年間ずっとそんな感じで過ごしてきたので(行く行く詐欺笑)
やっとこの生活が終わる!という開放感もあったりして
早く行って、早く帰ってきて、早く日本でどっしり根付きたい(1年後にできる!)とうれしく思ってもいます。
(いやほんとに、私はスイスでのたのしみは、今の仕事をどうやってよくやるか以外にないのです)
そんな中、ちょっと不謹慎ではありますが
死ぬ時ってこんな感じなのかもな、 と思ったので「そう思いました」と報告しておこうと思います。
事故などで突然死ぬのではなくて、がんなどなんとなく死期が分かりながら死ぬとき、という限定バージョンですが。
スイスへ行きますよと言われてからの日々も、イベントなどの予定は
「これはまだ日本にいるかしら」「きっともういないだろう」と思いながら
チケットを買ったり買わなかったり、見送ったり参加したりしていました。
実際に大体の出国日が決まってからは、それをよりくっきりと意識しています(現在進行形)。
これがまあ意外とそんなにダメージはなく
ライブやテレビ中継のあるもの(M-1とか)は向こうでも見れるからまあいいかという心境。
チャットやなんやらで、やり取りもできますしね。
と書いていて思いました。
死んだら会話(チャットも含む)はできなくなるのか。それはさみしいかも。
でも、たぶんなんかうまい具合にやっているのだろう。返事がないというさみしさという感情がない世界なのよ、あっちはきっと。
ちょっとさみしいぞ、と思ったのは
なんだっけ?スーパーで何か食べ物を見たんです。季節のものだったかな?
それを買ってももう食べられないな、と思った時がちょっとさみしかったんですけど
会話ができない、かあ
会話ができないことがさみしいと思う感情を持っている今は、そっちの方がさみしいな。
これは意外とやらなくても平気、これは無理してでもやりたい、
そんな整理が、このヘンテコな状態でよりくっきりしました。
そして、意外と全部できないものです。
食べたいものは全部食べられないし、身体はつかれます。
肉体の限界、死ぬときなら今よりも低下しているはずなので
体力つけようとも思いましたよ。
こんな感じで気づいたこと、
コーチングにも活かせそうですし
読んでくださった方も何かの時に「あ」と思ってもらえたらいいかもなと思って書きました。
元記事
Coach MIKI のコーチングについて
コーチングのメニューなど
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