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共感されるための文章に意味はあるのか?

noteを書いている時、「これは本当に自分の思いなのか?」と疑問に思うことがあります。書きはじめた時点では、もちろん自分の思いに違いはないのですが、書いているうちに当初思っていたことと違う結論にたどり着いてしまうことが多々あります。

書いているうちに頭の中が整理されて、違う考え方が浮かんでくるのなら別に問題ありませんが、なんとなくそうではないような感じがしています。本来書きたかったはずの自分の思いはいつのまにか何処かへ行ってしまって、読む人に共感されるための文章を書いているのでないかという気がするのです。

もともとは自分研究のためにはじめたnoteで、書きはじめた頃は、できるだけ脚色が入らないように、自分の思いをそのまま文章にしようとしていました。当初の頃の文章を読み返すと、当時を思い出して落ち込んでしまうくらい赤裸々に自分の思いを綴っているように感じます。

その頃と比べると、最近のnoteは読み返しても全然胸に響かない文章ばかりです。もちろんスキしてもらえたら嬉しいし、ビュー数が増えるのも嬉しいけれど、スキやビュー数を意識しすぎて、共感されるために自分の本当の思いを蔑ろにしているような気がするのです。

私のように文章が上手くなくて、頭がいいわけでもなく、実績も人脈も何もない人間が戦えるのは、確かに共感を得ることくらいです。今では、TwitterでもInstagramでもTikTokでも、ネット上ではどこに行っても、みんながいかに共感されるか競争しています。私もいつしか、いかに共感してもらえるかのゲームを、このnote上でしていたのではないかなと思います。

共感されることを書くのは簡単で、誰もが手を出しやすいし、共感を得ることで承認欲求を満たすこともできます。でも、それはあくまで一時的にだれかの浅い部分に触れただけのことです。スキをくれた人たちも5分後にはきれいさっぱり忘れてしまっているだろうし、自分も一時的に承認欲求を満たせただけで、すぐまた誰かの承認が欲しくなることは目に見えています。

読んでいてちょっと痛いくらいに自分の思いを赤裸々に書いたからこそ、出社拒否の記録は今でも自分の胸を打つんだと思います。それに、読み返した時、自分にすら刺さらない文章しかかけないような人が、スキやビュー数を意識しているということ自体ちゃんちゃらおかしいです。

「見知らぬ誰かの共感を得るよりも、読み返した時に自分のためになる文章を書く」

これをnoteを書くときの標語にして、これからも(ほぼ)毎日投稿頑張りたいと思います。


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