それぞれが「人間の器」を形作っている

もともと私は、責任を負うことから逃げてきた人間だ。自分に責任があるようなことも、「私は悪くない、悪いのは周囲にいた人たちだ」と、人に責任を押し付けまくってきた。

さらには、私は責任逃れをしている自覚がなかった。心の底から「私は悪くない」「失敗したのは自分の責任じゃない」と思っていたのだ。

失敗の責任は自分にあることと、自分がすぐに責任逃れをする無責任な人間であることに気づくことができたのは、本当に最近のことだ。

気づいた時はかなり落ち込んだ。

だって、自分がなりたくない人そのものだったんだから。


でも、そんなふうに落ち込んでいたところで過去を変えることはできない。だから無理やり、「今気づけてよかった」と前向きに捉えることにした。
ただでさえ生きるのが下手なのに、毎度落ち込んでたらキリがない。

今までは失敗してしまったけれど、せめてこれからは自分の責任は自分で取れるようにしようと決めた。最近は、耳が痛いことを言われたときも、目を逸らさずにしっかり受け止めるように心がけている。

しかし、人は突然変わることはできない。

今まで無自覚に責任逃れをしてきたのに、急に全部自分のこととして受け止めるのは普通に無茶だった。知らぬ間に責任を誰かに押し付けようとしている自分に気づいたり、受け止めきれなかったりして落ち込んだ。


自分の責任として受け止めきれないのは、許容量が少ないからなんだろうなと思う。ここで言う許容量とは、「人間の器」と言われている部分だ。

器が大きい人だったら目をそらしたくなるような事実でもたくさん抱えることができるけど、私のように器の小さい人は、一つ抱えるだけで精一杯になってしまう。一度にたくさんは抱えきれない。

耳が痛いことを言われたときに、それを自分の責任としてちゃんと受け止められるようになるには、この人間の器を大きくしていかなければいけないなと思う。


でも、この「人間の器」って、具体的に何を指すのだろうか?

「人間の器」についてちゃんと考えたことがなかったと気づいた。
改めて考えてみると、フワッとしていて、わかりにくい言葉だなと思う。

人間の器って、なんだろう?

心の余裕のこと?
人生経験のこと?
包容力のこと?
知識量のこと?

いろいろ考えてみたけれど、多分、これ全部合わせて「人間の器」になるんだと思う。それぞれの要素が、器を形作っているのだろう。

例えば、心の余裕が器の大きさを、人生経験が器の厚みを、包容力が器の深さを、知識量が器の形を、といった具合で。

どれだけ器が大きくても、浅い器には液体を載せることはできないし、どれだけ深さのある器でも、口が小さければ大きなものは入れられない。だからちゃんとした器にするには、それぞれを育てていかないといけないのだ。

そうなってくると、人間の器を大きくするには、それなりに時間がかかるということになる。


じゃあ、今抱えきれていないことはどうしたらいいのだろうか?

それはきっと、抱えきれないことについて誰かと共有するしかないんじゃないかなと思う。

共有するといっても、もちろん、責任を押し付けるということではない。
どうやったら受け止められるかを、一緒に考えてもらうということだ。

一人で抱え込むのはキツいし、自分を客観的に見ることができないと、器を大きくしていくことって多分めちゃくちゃ難しい。人に頼るのは苦手だけれど、人に頼る練習も兼ねて、人間の器を大きくしていけたらなと思う。

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