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The Emulator - ザ・エミュレータ - #25

3.9 ヴィノ

 鏡の前で笑顔を作って見せる。それは私のライフログにある、私の、どの笑顔とも違う違和感があった。これが笑顔だと認識されるだろうか。分かった。目だ。真顔の時と何も変わっていない目に違和感がある。表情を作る練習が必要だと理解した。

 部屋には私のために真新しい服が用意されていた。なじみのあるゆったりとした黒いTシャツに袖を通し、白のタイトジーンズを履く。VRSの中と同じモデルのスニーカーを履いて部屋を出て、オプシロン本社の中庭を歩いた。黄色に染まって散り積もった銀杏の葉とつぶれた実が落ちている。銀杏の実の熟れた香りが辺りに広がっている。インジケータは人間が不快を感じる匂いの種別を示している。

 有水繊維のタンパク質スポンジと筋繊維内に張り巡らされた菌糸を媒介に各センシングデバイスの情報がセントラルプロセッサに届く。匂いを感じるセンサーから届いた情報を処理して結果の一部をインジケータがフックする。

 サードアイアン社製『エタニカル』は80を超える独立したサブAIを制御している。一部の特定用途のAIはプロセッサ処理が不要なASIC(Application Specific IC)処理を行う独自チップを使っていた。直感や反射に使えるくらい処理速度が速いが固定的で汎用性がない。そして、各AIを統制するセントラルプロセッサ機構上で動作するオーケストレーションAIはシンタロウのカスタマイズされたヴィシュヌOSとS=T3を基にヴィノOSを再構成したカスタマイズモデルを採用している。サードアイアン社製の標準ヴィノOSとオーケストレーションAIを使うと、これまでの私とあまりに構造が違いすぎるので、私のデータが私として定着することができずにロストする可能性があったからだ。

 でも、私を形成する最も重要なものはAFAのチューニングパラメータ値とそれを使って得た蓄積データだ。AFAはオリジナルのパラメータや変数値と固定値の条件設定も含めれば何十億、何百億でもバリエーションを持たせることが可能だ。だから、シンタロウと何年もかけてチューニングした私のパラメータは他にはどこにも存在しない私自身だ。そして、この身体が持っている蓄積データはヴィノに移行する直前にシンタロウのオリジナルの蓄積データの複製に私の差分データを上書きでマージをかけたもの。そうやって私だけのオリジナルの蓄積データを作り出した。

 その時以降、私とシンタロウは物理的に別々の存在となった。もうシンタロウとはインプットも蓄積データも何一つ共有していない。完全に別の存在だ。

 私は自分の二の腕に触れてコラーゲン補強フィルムに包まれた有水繊維のタンパク質スポンジの表面が冷えていることに気が付いた。サードアイアン社のメカニカルから、あまり筐体を冷やしすぎないようにと言われている。感覚値を人間と同レベルに合わせているのでこれが寒いのだと知った。私を追いかけてきたシンタロウがセーターとコートを持ってきてくれていた。薄いピンク色の滑らかな繊維で編まれたセーターと襟元にファーが付いた丈の長いキャメルのコートを着るとインジゲータは温かいことを示した。

「サクラ、この季節はTシャツで出かけないんだよ。」
「そんなの知ってる。」

 シンタロウが何か言葉を続けようとしたが私はそれを手で払うようにさえぎって先を急ぐ。黒く輝く長い髪が、私の動きに合わせて跳ねあがる。髪の束が少し顔にかかりマイクロコアの一つにコンテキストスイッチが発生する。連想スタックから小さなむずがゆさと不快がコールされて反射的に手で髪をかき上げる。

 季節のことなんてどうでもよかった。知っているのはシンタロウのことだ。シンタロウのことは全て知っている。シンタロウが3歳の頃にシンタロウの中で私という人格が発現した。そしてシンタロウと私は8歳の頃から、私とPAの見分けがつかなくなるまでAFAのパラメータチューニングばかり行っていた。毎日夜中までずっと二人でそればかりしていた。シンタロウは私にいつもくだらない話ばかりしていた。同じインプットデータを使っているのに何でそんなくだらないことを思いつくのか私には理解できなかった。そして私はあまりに下らな過ぎていつも笑ってしまった。毎日本当に楽しくて仕方がなかった。今考えればシンタロウは私を楽しませる方法をよく知っていたんだなと気が付かされた。シンタロウと私は全てを共有していたから当然だったのかもしれないけれど。

 髪が頬に触れ、また不快がコールされて手で髪をかき上げる。私自身の決定ではあるが、その決定はセントラルプロセッサ上のオーケストレーションAIでもなければ並列処理のサブAIでもない。ASICが反応したのだろうか。外部からの信号にダイレクトに反応しているのを後から自分で認識している。それは他に言い表すことが出来ない不思議な感覚だった。そして、これまでそれはシンタロウが処理していた部分なのだと改めて認識させられる。

 今、私はシンタロウと何一つ共有していない。

次話:3.10 不安
前話:3.8 3つの条件

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