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やじろべえ日記 No.18 「開戦」

昨日と打って変わって今日は快晴である。

昨日は蝶の曲と,浅井さんとやった曲を一通り弾いてみたが結局わかったことは自分のテンポが変わりやすいことと,タッチの重さが変わってしまうことくらいだった。今日は伏見さんか浅井さん,どちらがいるだろうか。

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私は野良のキーボード弾きをしている学生である。いい加減その自己紹介どうにかならんのかと一部読者から指摘を受けたのだが野良のキーボード弾き以外名乗る方法がないのだから仕方がない。

野良のキーボード弾きというと一人で弾いているイメージだろう。その通りである…はずだったのだがここ2週間は誰かと演奏することが増えた。主に一緒に演奏するのはシンガーの浅井さんとキーボード弾きの伏見さんである。

実は自分が野良のキーボード弾きをしているのには理由がある。『日ごとに演奏が変わってしまう。』という特性があるため,セッションのチームを組んでも長く続かないのだ。そんななかで同じ人と2週間セッションが続いているのは奇跡的である。

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公園につくと話し声が聞こえてきた。耳を澄ませると伏見さんと浅井さんが話していた。あれ?この2人,接点あったっけ?

「こんにちは。」
「やあ,こんにちは。」
「あ,市村さん,こんにちは!」

なんだかあの日以来伏見さんが元気いっぱいになっているのは気のせいか。

「さっきまで伏見さんと一緒に演奏していたのだけど,彼女のキーボード,本当に独特だねえ。」
「そうですね。幻想的というかなんというか。」
「そ,そうだねえ。」
そこでおや?と思った。いつも笑顔の浅井さんだが今日は表情が硬い。なんでだ?

伏見さんを見ると,こちらはいつも通りっぽい。疑問が募る中で,私は前からやってみたかったことを話すことに。

「そういえばお二人ってなかなか接点がなかったですね。私お二人の演奏聴いてみたいです。」
「ほんとですか!じゃあ,さっきやってたのと同じ曲でいいですか?」
「はい。」

伏見さんはノリノリだが,浅井さんは調子が戻っていないようである。そこで伏見さんにある提案をした。
「伏見さん,1コーラスだけ!1コーラスだけでお願いします!」
「あ,はい。わかりました。」

2人は演奏を始めた。

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「…なんかごめん,伏見さん,市村さん。」
「私は特にかまいませんよ。大丈夫ですか?浅井さん。」
「頑張りすぎたみたい。」

同じ曲を同じように演奏したようだが,浅井さんはすでにへとへとだったようだ。伏見さんが申し訳なさそうにしている。
「なんか私,まずかったですかね…。」
「えーと,浅井さん,多分高音で疲れ果てた感じですよね?」
「あ,うん。なかなかあそこの高音苦手でね。」
「え!そうだったんですか!聴かせようとゆっくりにしちゃいました,ごめんなさい。」

やっぱりなと思った。多分伏見さんが得意な曲はボーカルが女性音域のものが多い。そのため浅井さんにとっては苦しい展開になってしまう。浅井さんの表情が硬かった理由はそれだ。少し考えれば容易にわかるはずなのに想像できなかった自分の抜け加減にあきれてしまった。

「浅井さん,お疲れ様です。…もしよければ休憩したあと少し合わせてもらっていいですか?」
「いいよー。」
「伏見さん,蝶の曲と何か新しい曲合わせてみませんか?」
「はい!やりましょう!」

伏見さんと蝶の曲を合わせてみると,2日前とまた何か違っているのがわかった。テンポか?音色の深みか?

終わった後伏見さんは声をかけてきた。
「今日は,なんだかお母さんみたいな雰囲気でしたね。」
「お母さん?」
「蝶はお母さんにはまず会えませんが,なんか子供を心配しているように見えたので…。」

なんでだ…。私は今日伏見さんの心配はしてないぞ…

「多分それ,僕のせいかもね。」
「え?」

休憩していた浅井さんが口を開いた。

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確かに浅井さんの心配はしていたが今は一緒に演奏していない。
「浅井さんを心配していたから,演奏に集中できていなかったということですかね?」
「いいや,音楽に集中できていなかったわけではない。心配していたのは僕だけでなく,伏見さんのテンポ感もあるだろう。伏見さん,さっき以上にテンポの変わり方激しかったからね。」
「すみません,市村さんとやると新しい世界がいっぱいみられるのでつい動かしてしまいました。」

たしかにテンポがいつも以上に揺れているのははっきり分かった。それに合わせて変えつつ音色は控えめにしていたのだが。

「多分伏見さんが揺れていたのに対して市村さんはそこまで激しくは動いていなかった。それが見守っている感じに見えたから『お母さんみたい』になったのかもね。」

なるほど…あれ?

「でもそうなるとどうして浅井さんのせいになるんです?」
「伏見さん,僕と合わせているときより生き生きとしてたからねえ。多分,市村さん誰かに合わせるの得意でしょ?」
「え?」
「さっき,僕伏見さんに合わせきれなくてさ。」
それで疲れてたのか。
「私もあんまり上手じゃなくて…合わせきれなくてすみません。」
伏見さんもうつむく。
「多分伏見さん,さっきと違って演奏にしっかり合わせてくれる君が来たから,安心感でテンポが動きまくったんだと思う。伏見さんも上級者だけど,彼女に合わせきれる君もすごいよ。なんでそこまでできるのにチーム解消されちゃってるのか本当にわからない。」
それに関しては申し訳ないが私もわからない。原因究明中である。

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2人の様子を見るに,なかなかハードな演奏タイムを過ごしたのだろう。表情も暗いしヘロヘロだ。これは,何とかした方いいかもしれない。

「浅井さん,休憩時間延ばしてもらってもいいですか?」
「いいけど?」
「良ければ明日また一緒にやりませんか?今度はさっきの曲を3人で。」

『3人』に真っ先に反応したのは伏見さんだった。

「やりたいです!やりましょう!」
「おお,すごいやる気ですね。浅井さんは?」
「いいよ。じゃあまた明日。この公園でいい?」
「はい。」

まさかこれが結構長い戦いになるとは私も予想していなかった。

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