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終わった後に,手を繋げたら。

今日読んだnote

物語には始まりがあり,物語のふくらみがあり,急展開があり,結びがある。そしておまけのようなエピローグがある。
今日自分が読んだこのnoteは昨今の騒動を物語と仮定した場合,物語のふくらみの一つだろう。

See May Jackのバグ

元来自分は温かみとは程遠い人格である。どちらかというとクールで淡々としているといわれることが多いし,その性格は自分も自覚している。
感情的にならないように,あつくなりすぎないように,判断にできるだけ感情を入れないように気を付けている側面はある。

そんな性格だから温かみというものがよくわからない。今話題になっている「みんなで歌おう」の動画を少しだけ見たが,「これだけの動画編集するの大変だったよなあ」とか,「歌のうまい人がたくさん集まっていてすごいなあ」などとは思うが,それ以上は何も感じることができない。

仕事で相手への送り状をワードで打とうと提案したときにされた反論「手書きでないと温かみにかける」という言葉も全く理解できなかった。(ただしこの時は,自分にはわからない何かをほかの人は知っている気もしたので他の人の意見に従った。)
それだけ温かみの分からない筆者がである。この現実を見て冷たいと思ってしまった。

冷たさの咀嚼

直接触れ合うことが親しさや幸せの絶対的定義だとは思わない。自分はスキンシップが幼い頃から苦手だったようで家族ともそこまで触れ合うことがない。(家族談)そしてそれが不幸だとはちゃんちゃら思っていない。

今回この文章に書かれていたカップルさんに関してはこの情勢の中それでも触れ合える熱い関係と受け取ることもできるし,この情勢下でも相手を求め,相手と触れ合おうと試みる程度にお互いを大切に思っていると受け止めることもできる。

距離が近いとたじたじになる人間は今くらいの距離感が結構ちょうどいいが,もともと近しい関係がデフォルトの人がつらいのは理解できる。
触れ合いたいのに触れられない。苦肉の策の手袋,苦肉の策の歌。

交流の距離感を選べなくなってしまった現実が分かった。これが,自分の気持ちが冷え込んだ理由である。

選択を奪われた今

集団を構成する人間は違う方が豊かになるというのは持論だが人と交流する際の距離感にも適用できよう。別にアメリカと日本を比べなくとも,日本国内でもめちゃくちゃ近しい関係が多い方がいいという人もいればほどほどが一番という人もいる。ある程度距離を取った方が過ごしやすい人もいる。他者との接し方も千差万別である。

近しい距離,対面を大事にする人たちにとって家族以外の大事な人,恋人や友達と直接顔を合わせられないことは確かに痛手になりうることはあるだろう。人との会話ではその場の空気を共有して関係性を気づく場面が多いのは事実だからである。その時に使うのは五感すべてである。下手したら第六感も使うかもしれない。
その一方,今交流の手段として推奨されている電話やオンラインミーティングだと,視覚や聴覚,おつまみがあれば味覚,ぎりぎり第六感は使えるが,嗅覚や触覚は確かに使えない。温度感を感じることもできない。共有できるものが減れば,それでさみしさを覚えるのは無理もない。

対面の方がいい,電話やオンラインのほうがいい,どちらも思っている人は多いだろう。手段に優劣はないが,どうしても長所や弱点はそれぞれ違ってくる。人の長所や短所も違うことから相性のいい手段だって異なってくるだろう。

人の熱や体温,雰囲気をじかに感じられなくなったことにそこまで悲しみは感じないが,それらを求める人たちがそれらを手に入れられないというのは悲しくなってくるものである。

物語の結末願望

他者との接し方もまた,人によって違いがたくさんあっていいと思うのだ。

しかしご時世においても「会えないなら電話で話せばいいじゃない」なんて言い出している始末の自分ですら,この騒動が長期化すれば友人や家族と直接会って話したくもなるだろうし,スキンシップもとりたくなるだろう。密な空間で雰囲気を作りながら遊んだり話したりしたい。同じ空間や時間を共有したくもなってくる。

今のオンラインでの交流を進める情勢も悪くはない。

でもやはり思う。すべてが落ち着いたらエピローグは,手をつなぎたい人同士がつないで自由に歩き回れる現実であってほしい。


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