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シトシトン

妖怪「シトシトン」の絵ではないですよ。
今月も描けました、形の擬人化イラスト!
雫の形はこの時期見る機会がやっぱり増えますかね。
ありきたりである割には結構マイナーかも。

毎年毎年飽きずに書きますが、今住んでいるアパートの自室にはエアコンが付いていないため、室内に置いた温湿計がだいたい28℃になったらデスクトップPCの使用をやめて、ノートPCとモニタを持ってリビングへ。
接続・起動し直して作業やお仕事を再開、そして夕方涼しくなってきたら自室に移動し直して再作業再開…、というのが僕の夏の生き方なのですが、どうやらそれも今シーズンで最後になりそうで、もう夏場の毎日の部屋の移動をしなくてよくなりそうなのですが、そうなるとこの夏場の毎日のそれが結構しんどいことだったんだなということが分かって来て、人間知らない方が幸せだということはいっぱいあるよな、などと感慨に浸りながら2024年の6月もおしまい。
今年は梅雨、けっこう後ろ倒しですよね?
この分だと来月とか結構雨多そうな気がします。
被害が少ないと良いのですが、水不足もまた嫌ですね。

それよりも、上に書いた「夏場」の生活が早くも始まっていて、もちろんパソコンを使用しているので、そうでない部屋に比べて時期的に早めに来るのは分かっていつつも、毎日28℃になるタイミングを見計らうのに苦労しています。
もう少し夏本番になれば、もう朝から移動を開始しちゃえば良いのでルーティンがしっかり取れて楽なんですけどね。
ただし、今年でそんな生活ともお別れ出来そうという事実があると、自然とそんな苦行だったルーティンも愛おしく思えてしまいます。

思えば、イラストレーターを名乗り始めて最初の10年は、それこそ実家のエアコンの無い自室で、日のよく当たる窓際にPCラックを設置して運用していたものですから、あるものは電源が、またあるものはコンデンサが、そしてあるものはグラフィックボードが日光と、自分の発する熱気にやられて死んでしまい、当の持ち主である自分は、ここまで長くPCとお付き合いすることになった割に何にも知識など持ち合わせていないので、その子たちを救う(修理してあげる)ことが出来ず、お金もなかったので泣く泣く新しいマシンを購入する、という負のスパイラルを送っておりました。
なぜか夏場の温度管理は全く考えられなかったな…。
そこにまで気を回せる人間だったら、もっと経済的に生きられた、そしたら数年前の都内に行く必要も無くなり、ストーリー的には今の着地をしていなかったのかもしれない、そのくらい多くのお金をそんなバカな事象に吸い取られていたものです。
青春ってありますね、誰にでも。


そんなわけで、先月の記事にも綴ったように、月半ばにはいよいよ人生後半戦、40歳を無事に迎え、ますますおっさんに磨きが掛かって参りました。
子がいる、という状況ですので親の誕生日なぞあって無いようなものですから、至極たんたんと、しかし妻からはささやかですがプレゼントなども頂いたりしてしっかり四十路を迎えさせて頂きました。
僕の人生がここからも長く続くという仮定に基づいた決意表明、絵をずっと描いていたいということは先月綴った通り。
当面の目標としては、健康な体の維持と収入面の維持となります。
自ずと、SNSなどに顔を出す頻度は上がらないかと考えます。
しかし、漫画のリメイクにはじまり、イラスト制作など水面下では着実に着手出来ており、完成した際にはいずれかで報告出来るかと思いますし「上手い」「面白い」などと若かったり未だ出会っていない存在に見つけてもらえることを楽しみに着手しております。
そして何より、そうした趣味の範疇に絞って言うと、周りにせっつく人間がいなくなったことで、とことんそれらのクオリティにのめり込めるのが、一つ幸せなことかなと感じております。
もちろん、それに没頭し過ぎるあまりに未完成のまま死んじゃった、は一番むなしいことですので、今作っている諸々はきちんと着地、完成をさせることが一番の目標ではあります。
が、それとは別に一度やってみたかった「他の人が何と言おうと」を突き詰められそうなのが何より楽しく、着手するモチベーションになっております。
これを、それこそ仕事もそぞろな駆け出しの頃にやったとして、いや、やっていたからこそ、漫画では続きが、イラストは次回作が描けなくなったのかもしれません。
商業的に何かに関わり、誰かと少なからず交わり得た知見が、今作っている諸々には反映されております。
むしろ、それがかつて作れくなってしまった地点からさらに歩を進ませてくれる足掛かりを生んでくれております。
絵柄にしたって、アプリケーションの使用方法にしたって、着手やアプローチの仕方にしたって、やはり今、世間ではどのような風が吹いているかが分かりながら作れるということは、一つの自信にはなります。
もちろん、ただ息をしていただけだったとしても40年という時間、この世界に存在していれば、逃げていたってそれなりに人やものごととの出会いと摩擦もあって、蓄積していくものはあります。
かつて自分が作りたかったものとそれらが上手く混ざってくれることを願って、基本的にはそれは昔からやっていることですが、であればどれだけ最初を見失わずにより濃くなっている「経験」を取り込めるか。
みんなやっていることは一緒なのだと最近は感じます。
個人、企業、基本はみんな同じ。
同人の界隈だって、はたまた他業種だってきっと理念としては同じなのでしょう。
偶然テレビで観た、漫画学科―羨ましい限りです、今10代だったら絶対入学しているだろうな―の学生ような方達が世の中に出ていくような時代になってきています。
あんなの、そういった概念が無かった時代を生きて来た人間からしたらサイボーグです。
青春時代を漫画で満たせるだなんて、許せないです、卑怯だよ、ずりいよ。
あんな人たちを前に、自分は本当にただの「おいぼれ」になる自信があります。
最近はそういう連中(口が悪くなってすみません)に一泡ふかせちゃる、という気持ちでモチベーションを生むことが少なくなくなってきました。
鳥山先生が無くなり、かつての「お手本」達はどんどんと歳を取ってゆきます。
ランドマークや目印が無くなり、代わりに規制が横行し、かつての歩き方では歩けない世界にどんどんなってゆくでしょう。
「絵」それ自体が古いコンテンツになって久しいのに、未だに多くの人がそれに触れたがるのは何故なのか。
色んなことを考えながら着手できるほど余裕は無いのですが、それと最後まで歩こうという決意だけは出来ています。
とにかく作らないと。
そういうことを改めて、節目に感じていた一ヶ月だったかなと思います。

今月お世話になりましたご担当者様、企業様ありがとうございました。
来月も引き続きよろしくお願い申し上げます。


続いて今月触れたものです。

《Spotify》
毎日/米津玄師

《Netflix》
・THE FIRST SLAMDUNK

他にも地上波のテレビ番組など観させて頂いたのですが、印象に残っているのはこの2つかなぁ、と。

まずは米津玄師さんの「毎日」。
「さよーならまたいつか!」という楽曲を未だ新鮮に聴いている中でこの曲が耳に目に飛び込んで来て、思わずうおっとなった1曲です。
これは正にいま自分が「アートワーク」として描いている作品群の、制作中の一枚に、ジャスト(というのはおこがましいのですが)で同じテーマを描いているものがあって「先を越された!」と思ったのと反面、なるほど、こういう雰囲気で作ればポップな表現になるのか、というアイデアを頂けた曲でもあります。
盛り込まれた要素や言葉選び音の運びが鋭く、SNSでもつぶやきましたが、これが「地球儀」から始まりファイナルファンタジーや朝ドラの主題歌といった大きな仕事を請け負ったその後に作れる(いや、作った順番は定かではないけれど)曲なのか、とただただ驚いています。
すごいアーティストです。

そして!
ついに観られたぞネオ・スラムダンク!
そして、そのためについに課金してしまったぞネトフリ…!
映画館で観なかったことを後悔いたしました。
しかしその進化というか、現代にマッチさせた表現・構成力に脱帽しました。
まんまバスケットのひと試合を観戦しているようなテンポ感の中に、それぞれのキャラクターのストーリー。
かつて観ていたオリジナルが「この手の」というある種パッケージを作り上げたのに対し、そのパッケージがありますよね、でも突き詰めて整理するとこういうことで、僕はこれがやりたかったんです、というそれが見える全体像がとてもすっきりと気持ちよく、かつてスラダンを楽しんでいた人たちが観るべき大人スラダンでございました。
気持ち良かった、ただただ。

そして、せっかく結果的にSpotifyにもNetflixにも入ってしまっているので、もっと楽しまないとですね。
YouTubeも気軽ですが、お金払っているのでという理由で来月以降はもっと活用していってみようと思います。
アマプラでは観られないジョジョの続きとか、実写のワンピースとか観たいわ。


さて。
そんなそれぞれの精神状態で40の自分がスタートしたわけですが、やっていることは20代の頃からあまり変わっておりません。
日々絵を描く、またはその準備と勉強に明け暮れる。
先にもたエッセンスとして文中に混ぜた「不安」は、かつての焦燥感とは異なるもので、少し憂いもありつつ。
自分の精神状態は、死ぬまで絵を描く覚悟で満ちています。
しかし、世の中がそれを許す風潮でいてくれるかは、また別問題だということ。
それを少し「不安」に思っております。
もちろん、まだまだ日本が誇るべきお家芸なのでしょう、MANGA、ANIMEは。
ただその受け取り手の属性が変わりつつある昨今、発信する側が変わらなければいけない部分も沢山あるかと思います。
商業で言えばお金が生み出せなければ成り立ちませんし、趣味で言っても受け取ってくれる人が良いね、と言ってくれなければ、本当にそれこそ日曜大工に終わってしまいます(まあだから「趣味」だし、趣味はそれで完結すればよいのでしょうが)。
絵柄を今風のものにすれば、表面上は解決するのでしょうが、そういうことではない気もしています。
自分は何がしたいのか、それを今までよりもだいぶ強くはっきりと持っていないといけない時期、なのか役目、なのかそういう順番、なのか、そういうタイミングが来ているような気がしています。
重要なポジションに就いた、有名になった、それはあまり関係ない気がします。
「日本」がという名称を出してしまうと宗教や政治の匂いがしてしまうので、あくまで「我々」と留めておきたいのですが、技術や概念の進歩はある、理論上はもう次のステージに進める状態である我々が、その舵をすぐに切りたくないのはなぜか、そういう感覚に近いものだと思っています。
受け取り手、発信する側、そういうものは都度状況で変わるでしょうから、総合的に自分を「何者だ」と定義付ける意味は日々強くなっていっている気がします。
それこそ「毎日」の何気ない時間に実はその決定する因子が眠っているような気が日に日にしているので、一刻と選択を謝らない生き方をしたいものです。
その選択を極力間違わないように過ごしていけば、なかなか大丈夫なんじゃないかなと最近は思ってもいます。

一旦毎日を大切に。
そういう目標でやってみようかなと思っています。
…これも20代から言っていることですが。
あの時とは濃度というか解像度が異様に違いますね。
ふわふわしていたあの時代はゆるくていいね。
絵を描く身としては、空想が沢山出来たああいう時代に戻れると良いのだけど。
親に頼れていた、とか色んな要素も相まっていそうですが、ならば余計に諸々、言ってもいられないです。

頑張ろう。


では、また来月。

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