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村上春樹『街とその不確かな壁』感想

はじめに

 今日は村上春樹さんの新作長編『街とその不確かな壁』(新潮社)の感想をつらつらと書いていこうと思います。
 第一部から順に雑感を書いていく予定なのでネタバレがあることと、先の展開に触れていたり他作品の話題を出すこともあると思いますので、その辺りをご了承下さい。

第一部

 さて、最初の数章を読んでの印象は、思っていた以上に『世界の終り』だなぁというものでした。だからこそ本作との違いが気になるところですが、序盤はどちらかというと街の話よりも過去の話に比重が置かれていました。
 それは17歳と16歳の少年少女による『ハードボイルド』とは無縁の静かな物語で、思春期の普通の男女とは少し感性が異なる二人が、閉じた世界で二人だけの関係を紡いでいくことになります。それは同時に、「終わり」を強く予感させる関係でもありました。

 こうした筋立ては村上作品にはよくある展開だと言って良いのでしょうし、より踏み込んだ言い方をすれば、直近の短編集『一人称単数』が本作の習作だったという解釈が無難であろうかと思われます。
 このような短編と長編の関係は過去にも見られたことで、それだけ作者にとっては書きたい物語だったと言えるのでしょうし、同時に、作中人物が激しく動きを見せるような展開を(おそらく年齢が原因で)書くのが難しくなってきたことを自覚した上での選択でもあるのでしょう。

 ところで、本作の冒頭ではコールリッジ『クブラ・カーン』の引用がありました。
 おそらく本作の三部構成は、その『クブラ・カーン』に則ったものだと思うのですが、かつての作品ほど深い意味合いを持たせていない感じを受けました。
 例えば『1Q84』のBOOK1,2では、バッハの『平均律クラビーア曲集』をかなり深くまで掘り下げて反映させていた気配があり(残念ながら私に理解できるのは24章×2という構成に反映させたことぐらいですが)、単純な解釈を強固に拒もうとする意志がそこかしこから感じ取れたことと比較すると、本作の穏当さが際立つように思います。

 そんなこんなで、しばらくは過去の話と街の話が交互に語られました。
 それぞれの描写も安定したもので、前者は「ぼく」と「きみ」、後者は「私」と「君」という書き分けが為されていました。

 ところが、街の話が連続する9章と10章を経て、不穏な気配が大きくなっていきます。

座席にゆったり腰掛け、「永続的な」という言葉について考えを巡らせる。しかし高校三年生になったばかりの十七歳の少年にとって、永続的なものごとについて考えを巡らせるのは簡単なことではない。彼に想像できる永続性の幅はかなり狭いものだから。「永続的」という言葉から思い浮かべられるのは、海に雨が降っている光景くらいだ。

(P.66)

 ここでは明らかに「ぼく」とは別の視点が、つまり「私」の視点が差し込まれていて、この時に思い浮かべた光景が先々で重要な意味を持つことになるという読者への予告が行われています。

 そして先程の構成の話に戻ると、各章は確かに語るべき意味と位置づけをそれぞれ与えられてはいるものの、それ以上に章の書き出しと締め括りに対する格別な配慮が感じられ、読者の注意を惹いて先へと読み進められるように細やかな工夫が為されています。
 決して作品全体の構成を疎かにしているわけではなく、あるいは物語を大きく動かすことで読者を引き付けるような書き方が徐々に難しくなってきたからという事情も寄与しているとは思うのですけれど、より重要なのは目の前の描写だという姿勢で本作と向き合っているように思いました。

 これ以降は過去の話が結末へと向かって進み始め、つまり過去が過去として終わりを迎えることになる一方で、本作で登場する街と『世界の終り』との違いが少しずつ明確になっていきます。

 例えば、門番が門衛になったり大佐が老人としか表記されないような小さな変化ではなくて、地図や発熱の意味合いが異なっていることが(そして手風琴の不在が)読者に向けて提示されました。
 特にこの場面で重要なのは発熱で、それはある種の通過儀礼として扱われると同時に、現実にあったコロナ禍を意識させるものでもあり(感染やワクチン接種はコロナ後を生きる我々にとっては通過儀礼と見なせるように思います)、そして伏線としての意味合いも持ち合わせていました。
 その一方で、看病してくれた老人が語った亡霊の話も伏線と言えるのかもしれませんが、とはいえ身構えていたほど(つまり過去作品ほど)重要なものでも危ういものでもありませんでした。これについては後ほど改めて考えてみたいと思います。

 もう一つだけ街に関する大きな違いに触れておくと、それは「夢読み」についてです。
 それは作中においてはさほどの違いを見出せないのですが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品が世に出てから40年近い歳月が過ぎていくつもの作品が発表された結果として、かつてとは違った文脈を背負い込むことになりました。
 例えば『ねじまき鳥クロニクル』で主人公が行った「仮縫い」の仕事、『ダンス・ダンス・ダンス』における「文化的雪かき」、『1Q84』における「代筆」など、誰かがやらなければならない仕事ではあるものの自分の中を通り過ぎていくだけの仕事を色々と見てきた今となっては、「夢読み」という仕事を、初読した時ほどすんなりとは受け入れられませんでした。

 本作を最後まで読み終えて、今までとは違って暴力の気配が極力抑えられた作品だと認識したところで振り返ってみると、街に入るため・夢読みの仕事をするために必要なこととはいえ、「目を傷つけられる」という行為の暴力性は本作の中では際立って(「耳を噛む」以上に)目立っているようにも思われます。
 そこに作者が手を加えなかったことには明確な意図があるのでしょうし、他にもいくつか存在している仄暗い気配ともども気になっているわけですが、あわよくば続編の発表という形で実を結ぶと良いなと思うのでした。

ひとりの少女が、あなたの人生から跡形もなく姿を消す。あなたはそのとき十七歳、健康な男子だ。

(P.152)

 いよいよ第一部が佳境に入ったことを示すように、21章では二人称視点で描かれています。
 視点に拘りを持たせた作品としては『アフターダーク』が思い浮かびますが、章末で「ぼく」視点へと滑らかに、そして印象的に切り替わっているあたりに、作者が今までに積み上げてきたものの片鱗が窺えるように思いました。

「君は彼女じゃない。それはよくわかっている。ここでは君は夢も見ないし、誰かに恋することもない」

(P.159)

 街での暮らしにも大きな変化が近付いていました。
 とはいえ、この展開は既に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描かれているという意味での既視感はありましたし、過去の話の中でも「永劫」の問題点が指摘されていたので(P.67)、わりと淡々と読み進んでいきました。

ぼくの中には一貫した怯えがあった。もし無条件で誰かを愛したとして、その愛した人からある日突然、理由も告げられず、わけもわからないままきっぱり拒絶されることになったら、という怯えだ。

(P.162)

 こうした側面についても、拒絶であれば『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などが思い浮かびますし、消失であれば『スプートニクの恋人』などで繰り返し描かれてきたので、痛切な感じは控え目だったように思います。
 それは同時に、過去作品で時折見られた「彼自身の問題には読者の目が届きにくいように描かれている」ことによるある種の滑稽さもを薄めていた感じを受けました。

おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ。

(P.174)

 もう一つ書いておきたいのは、本作からは過去の村上作品だけではなく、村上作品に影響を受けた作家・作品を連想しやすいように思いました。
 おそらく村上さんはその大半の作品を体験どころか認知もしていないと思うのですが、あたかも逆輸入をしたかのように、過去の村上作品→その影響を受けた作品→本作という再取り込みの流れが存在しているかのような幻想を覚えました。

 ここで引用した壁の台詞は、アニメ『輪るピングドラム』の最終話で渡瀬眞悧が語りかける(けれども見向きもされない)場面を想起させます。
 そして興味深いことに、一見したところでは壁も渡瀬眞悧も主人公たちの敵・悪役のように思えるものの、見方を変えれば主人公らにとっての大切な存在(きみ、高倉陽毬)を生き長らえさせている。つまり彼女らが失われずに済んだのは壁や渡瀬眞悧のおかげだ、という側面も持ち合わせているのが面白いところです。

 壁のこうした側面が明らかになるのは発熱の伏線が回収される場面なので、その時にまた話に出そうと思います。

「言ったとおりでしょう」と影が耳元で言った。「すべては幻影なんだって」

(P.174)

 とはいえ気を抜いていたり意識を逸らしていると重要な描写を見逃してしまうもので、個人的にはこの場面でがつんと衝撃を受けました。
 これらの発言は、主人公の影が口にするには多少の違和感があり、もっと言えば別人のようにも思えたからです。

 つまり、この影は「ぼく」「私」の影というだけではなく、「きみ」の影でもある可能性が極めて高いのではないかと私は受け取りました。
 もちろん、そうではない可能性もありますが、例えば『1Q84』における「ふかえり」の多義性と比べると、随分と分かりやすく書かれているのは確かでしょう。

 後にイエロー・サブマリンの少年によって再現されていることが(P.624)、この仮説の傍証となるように思います。
 この街に私を導いたのはおそらく「きみ」で、少年を導いたのは私。とはいえ一体化を主導したのは「きみ」と少年で、いずれの場合も私は受け身の立場であり、おそらく「きみ」との一体化は壁の外側で行われたのでしょう(P.165)。
 これらの出来事が、自身の半身を求める話が書かれていた『海辺のカフカ』を連想させることもまた、傍証の一つとなり得るのかもしれません。

 このようにして第一部は終わりました。
 いよいよ続編が始まるのだな、という期待感を抱かせる終わり方でしたが、不思議なことに「どの作品の続編なのか?」が断定しにくくなった感もあり、つまり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だけではなく、やり残した部分や心残りな部分がある作品全ての続編という側面もあるのではないかという気がしました。

 ということで、第二部に入る前に少し整理をしておきたいと思います。

ここまでの雑感

 きみから届いた手紙で暗示されているように、二人の繋がりが切れたのは「望まぬ妊娠」が理由だったと考えられます。
 デビュー作『風の歌を聴け』に対して斎藤美奈子さんが「妊娠小説だ」と述べておられたように、このモチーフは初期三部作から『ノルウェイの森』を経て『国境の南、太陽の西』以後の作品でも、何かしらその影を覗かせています。
 つまり、村上作品をそれなりに読んだ人にとっては「またか」という話でもあり、そして以前の作品ほどの深みは無いと言えそうなことが、この作品をお薦めしにくい理由にもなっています。

 では以前の作品と比べて劣るのかと問われると、それは作品の性質の違いによるもので、優劣に繋がることではないと私は思います。
 特に第一部は『世界の終り』と内容が類似するために、本作はいわゆる「別ルート」あるいは「二次作品」に近い雰囲気を醸し出しているので苦手な人はそれなりにいると思われますが、それは作品の評価とはまた違った話です。

 とはいえそれは読み手の「好み」に繋がるものなので、作品の優劣よりもよほど悩ましい部分を持ち合わせています。
 本作をお薦めできるのは、村上作品をほぼ全て読んでいて過去作品の仄めかしを容易に察知できる人か、あるいは村上作品を今から読んでいこうとしている人で、後者にとっては入門書(および最後に還ってくる作品)と考えると悪くはないように思います。
 平たく言うと中間が無い感じで、その点で少し扱いが難しいですね。

 雑感としてもう一つ書いておきたいのは、本作からは「最後の長編」という気配が漂ってくるように思います。
 そしてこれは単純な話ではなくて、「最後の長編」を演じている側面が確実に存在しています。それは作者がいわゆる「村上春樹」を演じているのと同じ意味合いです。

 これは扱いの難しい問題で、作中の描写それ自体が本作の位置づけを定めようとするかのように読者に訴えかけている、そうしたメタ側面をどの程度重視するかという話にもなるからです。
 例えば「ハードボイルド」への言及があった場面(P.526)、例えば黒い金庫の中に過不足なく用意されていた書類(P.349)、「もちろん」という口癖への言及(P.545)、長い歳月をかけて言葉を探し続けること(P.85)、現実と非現実や生者と死者がひとつに入り混じっている物語(P.576)、そうしたいくつもの(けれども一つ一つは決定的な意味を持たない)描写の積み重ねによる誘導に、どの程度乗って良いものなのか迷う部分がありました。

 とはいえ作者の年齢を考えると確かに本作は「最後の長編」になるかもしれず、であれば相応の姿勢で向き合いたいと考えて、この第一部が終了した段階でいったん作品世界から戻ってきました。
 私は読書人と自称できるほど本を読めるわけではありませんが、それでも長時間の読書が苦にはならない性格なので、余力をたっぷり残して離脱するような読み方は珍しいことでした。
 けれども今になって振り返ると、上記の具体例は第二部に偏っているのですが、それらと出くわす前に態度を決められたのは結果として良かったなと思います。

 そんなわけで続きは後日に回して、本作を読んでいてふと聴きたくなった以下の曲と向き合いました。

 世の中には不思議なことがあるものですが、四半世紀も前から存在していたこの曲を私はほとんど知らないまま過ごしていて、このタイミングでこの楽曲に深く触れる機会を得られたというのは、本当に不思議な出逢いだったなと思います。
 このSOPHIA『街』という作品は、本作『街とその不確かな壁』の雰囲気とも合っているように思いますので、興味を持たれた方は聴いてみて下さい。

第二部

 では、第二部に入ります。
 物語の舞台が移動すると同時に、先程述べた仮説の傍証が登場します。

まだ記憶が生々しく鮮やかなうちに、手元のノートにその内容を思い出せる限り詳細に書き留めた。ボールペンの細かい字で、何ページにもわたって。

(P.196)

 かつての「ぼく」にはできなかったことが、なぜ可能になったのか?
 これにも別解はあろうかと思うのですが、私は「きみ」との一体化が原因だと受け取りました。つまり、これの再現が第三部における「夢読み」(P.628)であろうと考えました。

 この夢に導かれるようにして、本作の主人公は『海辺のカフカ』の主人公と(年齢の違いはあれども)同じように、地方都市の図書館へと居を移します。
 そこでは子易さんとイエロー・サブマリンの少年という、いずれも30歳ほど歳の離れた二人と出逢うことになるのですが、彼らが主人公と同性である点が過去作品とは異なる部分でしょう。
 つまり子易さんは『海辺のカフカ』に登場する佐伯さん、イエロー・サブマリンの少年は『1Q84』に登場するふかえり(あるいは、少し変則的ですが『騎士団長殺し』に登場する秋川まりえ。より広義には『ねじまき鳥クロニクル』の笠原メイや『ダンス・ダンス・ダンス』のユキなど)を連想させる立ち位置だなと考えながら両者を比較することで、性的な側面が脱色されている本作の特徴が浮かび上がってくるように思いました。

そこに一人で立っていると、私はいつも悲しい気持ちになった。それはずいぶん前に味わった覚えのある、深い悲しみだった。私はその悲しみのことをとてもよく覚えていた。それは言葉では説明しようのない、また時とともに消え去ることもない種類の深い悲しみだ。目に見えない傷を、目に見えない場所にそっと残していく悲しみだ。目に見えないものを、いったいどのように扱えばいいのだろう?

(P.234-235)

 もう一つ本作の特徴と言えるのは、作中の登場人物の記憶と他作品の記憶、更には作者自身の記憶が境目を曖昧にして混じり合っているように思える点です。
 こうした特徴は直近の短編集『一人称単数』にも強く当て嵌まることで、特に『「ヤクルト・スワローズ詩集」』において顕著ですが、近年の村上作品はこれらの腑分け作業を必要としている点において批評を難しくしているように思います。
(あるいは、時間と労力をかけられる立場の批評家にその仕事が託されている状況だと言えるようにも思います。)

 なので作者の記憶については専門家にお任せするとして。ここで参照されている作品外の記憶は、『羊をめぐる冒険』の末尾、砂浜で泣いたときの記憶なのでしょうし、それは少し形を変えて『ノルウェイの森』でも繰り返された記憶だと思われます。
 この件については、それ以上の説明は無粋でしょう。

記憶は時間の経過とともに失われたのか、それとも最初から存在しなかったのか? 私の記憶していることのどこまでが真実で、どこからが虚構なのか? どこまでが実際にあったことで、どこからが作り物なのか?

(P.257)

 以上の描写で始まる34章にて、主人公は半地下の真四角の部屋に案内されました。
 そこには薪ストーブが備え付けられていて、ここで読者が作中時間の歪みを感じ取ることを期待しているかのような書き方になっています。
 つまり第一部で描かれた街の図書館が、実は第二部のこの時点の体験をもとに遡及的に構築されたものだったという可能性と、その逆に街での記憶が目の前の部屋を生み出したという二つの可能性が、読者に向けて示されました。

 それと同時にこの部屋から思い浮かべるのは『ダンス・ダンス・ダンス』に登場した旧いるかホテルの一室で、35章では時間が足りず36章でついに明かされるよりも先に、一部の読者は子易さんが死者であると思い至ったことでしょう。
 とはいえより重要なのは、子易さんが「この部屋で自死を選んだ」のではなく自然死だったことだと思います。

 自死を選ばなかった理由は後ほど語られているものの(P.382)、遺体が発見されるまでの経緯などは描かれていないので、そこに不穏な気配が無いわけではないのですが。
 それでも、本作の半地下の部屋には旧いるかホテルの一室のような死の気配が存在していない(それどころか、死および死者に対するイメージも違う:例えば『羊をめぐる冒険』では灯りを点けて語ることはできなかった)ことに、読みながらほっとしたのを覚えています。
 子易さんは、この部屋がもともと何に使われていたのか、その知識は持ち合わせていないと述べていますが(P.262)、そこには本作とは別の長い物語が潜んでいるように思いました。

 ところで、村上作品の主人公は、かつてはデビュー当時の作者と近い年齢に設定されていることが多かったものの、近年は少しずつ高齢化していました。
 とは言っても40歳という区切りは明確に意識されていて、一つ前の長編である『騎士団長殺し』でも主人公は36歳でした。その代わりに54歳の免色や92歳の友人の父が配置され、作者の意識が彼らを介して作品に関わっているように感じる場面が少なからずありました。
(後者はもちろん作者の父を意識したキャラではあるのでしょうけれど、作者自身を感じることもありました。)

 本作では作者の意識が、40代と10代と70代でそれなりに均等に分割されているように思いましたし、その結果として前作『騎士団長殺し』には存在していたような違和感:主人公の年齢と、1980年代のような行動様式と、21世紀という年代設定の齟齬が、本作からは薄れていたように思いました。
 これもまた短編集『一人称単数』から意識的に取り組んでいたことの成果だと考えられますし、その結果として、親から子への伝達・継承という視点が描かれることになります(P.320,P.648)。

 その後に紹介された子易さんの半生については、特に取り上げるべき内容は無いように思われました。例えば命名や漢字の意味について、その人生の変遷と作者との関わりについて等々は、それらに興味を惹かれる他の方にお任せしようと思います。
 私にとって重要に思えたのは、ここで初めて具体的な音楽の記述が登場して(P.365)、そして異性との出逢いがあったことでした。

「一度でも自分の影を失われた方は、一目でそれと見て取れます。そのような方は当然ながら、なかなかおられません。とりわけまだ生きておられる、、、、、、、、、人の中には」

(P.374)

 子易さんのこの発言で示唆されているように、主人公のような存在は極めて稀だとしても、死んで影を失った(あるいは影を失って死んだ)人は、なかなかおられないとは言ってもいないわけではなく、つまり「きみ(の影)」はおそらく子易さんと類似の状態でこの世に存在していたのだと考えられます。
 そして、そのことを主人公が意識下で認識できたからこそ、作中世界に音楽と異性が、より正確に言えば主人公が親しく思える音楽と異性が、登場できたのだと考えられます。

 ここで子易さんはその役割をほぼ終えて、異物を呑み込んだときのような反応を見せて(p.383)、部屋を後にします。これも第三部で主人公に起きたこと(P.641)との対比になっています。
 そして子易さんと入れ替わるようにして、イエロー・サブマリンの少年が登場します。

封筒が空ではなかったことを知って、私は少しだけほっとした。もし空っぽであったなら、その中に入っているのがただの無であったとしたら、私は少なからず混乱をきたしていただろうから。

(P.417)

 ここでは『ねじまき鳥クロニクル』における本田さんの遺品を連想しました。
 それと同時に考えたのは、当時の作品では継承について両極端とも言える描写がなされていて、『羊をめぐる冒険』から連なる悪しきものの継承を断ち切ろうとする一面と(規模の小さなものだと『国境の南、太陽の西』において義父からの投資話を断った一件なども含めて良いと思います)、結婚を機に新しい世界・本来の自分を作ろうとして継承しなかった世界や自身からの仕返しという一面が存在していました。

 それらと比べると、やはり本作の継承は穏当さが目立つように思います。
 そして穏当さという意味で言えば、ここで再登場した「地図」の役割もまた、『世界の終り』と比べると穏当であったように思います。

そしていつものように駅近くの小さなコーヒーショップに入って暖をとり、温かいブラック・コーヒーを飲み、マフィンをひとつ食べた。

(P.431)

 これは作品の内容とは全く関係のない話ですが、この場面に差し掛かった時に、我が家の冷凍庫にマフィンがひとつ残っていたのを思い出して、読書の途中なのに、そして特に集中が切れたわけでもなくお腹が空いているわけでもなかったのに、ふらふらと立ち上がってお湯を沸かしてコーヒーを淹れて、解凍した(残念ながらブルーベリーではなく)カシスとベリーのショコラ・マフィンをもそもそと食べました。
 私はだいたい一気に読んで一気に書くのが好きなので、第一部でいったん読書を切り上げたのも珍しいことでしたが、途中でおやつ休憩の時間を取ったり、この文章もわりと途切れ途切れに書き進めていて(その結果、書き上げるのが予定よりもずいぶんと長引いてしまいましたが)、それはやはり最後かもしれない機会を堪能したいという心の表れだったのかもしれません。

終わらない疫病

(P.449)

 閑話休題ということで作品の話に戻ります。

 第一部で発熱の話がありましたが、その伏線がここで回収されたと考えて良いのでしょうし、今までとは違う壁の姿:主人公と敵対することのない側面が示されたと言って良いのでしょう。
 つまり、終わらない疫病を壁が防いでくれたおかげで、「きみ」の本体らしきものは今もなお街で存在し続けられています。それは同時に、壁の内側に入り込むことができれば、「きみ」が街から離れる原因になるような病に感染させることができるという意味でもあります。

 必要な情報を伝え終えたイエロー・サブマリンの(とは別のパーカーをこの時には着ていた)少年は、最後に白いハンカチーフを主人公に見せてから、部屋を後にしました。
 その後の主人公は、少年に関する知識を得たり、コーヒーショップの女性との仲を深めたり、子易さんと最後の対話を交わすなどして時を過ごします。
 それらの背後には家族の難しさや性行為の難しさ、そして出逢うタイミングの難しさと選択の難しさを原因とした物語が潜んでいるものの、この作品の中では背景としての存在感しか持ち得ていないように思いました。

考えてみれば、イエロー・サブマリンの少年が強く興味を抱いたのは、私という人間にではなく、私がかつて身を置いた街に対してだった。私はただ通路として素通りされただけの存在に過ぎないのかもしれない。

(P.521)

 そして少年は神隠しに遭ったかのように姿を消します。
 少年の父との会話の中で、主人公はこのように自問していましたが、これはライトノベルの主人公に備わっている類いの鈍感さと臆病さ(あるいは、それに由来する敏感さ)の同居が原因であろうと考えられます。
 つまりこれは下の世代との関係性に迷うがための邪推であり、この点で同世代の異性や同性との関係性に惑うライトノベルの主人公とは異なると言っても良さそうですが、結局のところ両者に本質的な違いは無いようにも思えます。
 おそらく人は中年になっても、老年になっても、思春期の頃に懐いていたような心情からは逃れられないのかもしれません。

頭上の棚からボウモアの12年もののボトルを取り出した。

(P.536)

 少年の消失は、コーヒーショップの女性との関わりを更に深めることになります。
 が、それはそれとして、ちょうどボウモアの12年ものを開けようかどうしようかと思い悩んでいたところだったので、本稿の写真を撮影した後で開封の儀を執り行いました。

そして隣の席を見た。でも彼女にはその声は聞こえなかったようだ。彼女は両手でしっかり顔を包み込むようにして、声を出さずに泣いていた。涙が、その指の間からこぼれ落ちていた。

(P.546)

 目の前の出来事とは無関係の事柄に意識を奪われていたのは私だけではなく主人公も似たようなものでしたが、たとえ主人公が彼女から目を離さず意識を逸らさずにいたとしても、彼女が涙をこぼした意味を半分でも理解できたとは思えないあたりに、コーヒーショップの女性の奥深い(けれどもおそらくはありふれた)物語が潜んでいるように思いました。

そこが目指していた場所であることが、一目見て本能的に理解できた。私はこの小屋に来るために、深い森を抜けてここまでやって来たのだ。

(P.562)

 少年の二人の兄とのやり取りには多少の緊張感があったものの、『ダンス・ダンス・ダンス』に登場した文学や漁師と比べると遙かに友好的で、主人公に対しても読者に対しても分かりやすいヒントを与える役割に過ぎないように思いました。

 そしてその夜、主人公は深い森の中にぽっかりと開けた平らな場所で、少年の抜け殻を見付けました。ここは『海辺のカフカ』の別視点と言って良いのでしょうし、物語がついに佳境を迎えたことを示しているのでしょう。
 熱を帯びた耳たぶの痛みは『ねじまき鳥クロニクル』と同様に壁を通り抜けるためのもので、コーヒーショップの女性との関わりが増えることで逆に世界の改変が実行され(あるいは世界の改変が女性の改変をも促して)、作品内外の記憶を仄めかすような描写が急増する中で、ついに主人公は「あの場所」へといざなわれることになります。

「ねえ、わかった? わたしたちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」

(P.598)

 その時のやり取りは『1973年のピンボール』で交わされたものと同種であり、この気付きについては『ねじまき鳥クロニクル』の第二部終盤、プールでの気付きと同種のものなのでしょう。

第三部

 第三部は実質エピローグのようなもので、一人で帰る彼女や、少年に認証を与えるか否かなど、読者に緊張を促す場面はいくつかあったものの、それらも含めて予定調和と言って良いと思います。

あなたの心は空を飛ぶ鳥と同じです。高い壁もあなたの心の羽ばたきを妨げることはできません。前のときのように、わざわざあの溜まりまで行って、そこに身を投じるような必要もありません。

(P.648-649)

 前のときとは第一部のことでもあり、そして『世界の終り』のことでもあるのでしょう。分かりやすいと言うよりも露骨と言って良いくらいの書き方で、かつてとは別の結末であることが主張されています。

代わりに私が口にしたのは「さよなら」というひとことだった。

(P.651)

 これも第一部で受け取った手紙に書かれていた言葉であり、そして『ねじまき鳥クロニクル』第三部の終章にて口にされた言葉でもあります。
 この場面から、珍しい「あとがき」に至るまでの描写は、作者が物語を書くという行為を演じ切った証とも言えるのではないかと思えたのでした。

読者の期待と結末について

 おそらく大半の読者にとって、本作を読みながら期待していたのは「彼女の問題が解決して、二人が結ばれること」だったと思います。
 しかしながら、そうした場面が描かれないままに、つまり原因と結末が不明なままで物語は終わってしまいました。

 とは言っても、ここまで述べてきたような他作品への目配せを思い起こせば、原因と結末が不明とは言えないようにも思います。
 それらは充分に予測可能なものであり、だからこそ作者は蛇足を避けて、ここで物語を締め括ったのかもしれません。

 ではそれが理由なのかと言われると、少なくとももう一つ重要な理由を上げておくべきだと思いました。
 つまり、作者の体力的な問題という理由です。

 作者の体力という引数は、作品の良し悪しに直接影響を及ぼす重要な要素なのですが、近年の村上作品はその影響を大きく受けてきたように思います。
 例えば直近の長編である『騎士団長殺し』では性描写なども含めて淡々と描かれていた印象で、静かな展開の中でフルマラソンの完走を目指すような書き方だった記憶があります。
 これは、一つ前の長編である『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にて、技巧とミステリ風の要素を組み合わせて(この試み自体は成功と言っても良さそうでしたが)誤魔化そうとしたものの、マラソンで喩えると足のもつれなど衰えつつある姿がいくつかの場面で垣間見えてしまったことがおそらく原因で、それを重く受け止めて対処した結果であるように思いました。

 そして本作は、走るコースを入念にチェックして事前の準備を万全にした上で、ジョギングでどこまで走れるのかを試すように進んでいる感じを受けました。
 これらの印象は私個人の勝手な思い込みかもしれませんが、作者の体力という要素を考慮すると、あそこがゴールに相応しい場所だったのも確かなので、「更に遠くへ」を求める気持ちと、終わっても良い場面までちゃんと走り切ったことに安堵する気持ちが私の中に残っています。

 おそらく本作に対して「中途半端」「尻切れトンボ」といった批判は出るでしょうし、老いを指摘する声もあると思うのですが、「村上春樹」ほどの作家が今なお長編を書き続けているという事実もまた、同時に語られるべきだと思います。
 私の記憶にあるのは、『ノルウェイの森』が映画化されて『1Q84』が上梓されるという流れの中にいた「村上春樹」ですが、本が好きそうな人の前でその名を出せば必ず反応が(それが良いものか悪いものかは問わないとして)返ってくるような存在でした。

 その存在のありがたさは数年前に、より大規模な形で名を轟かせた漫画『鬼滅の刃』を例に出すと伝わりやすいように思います。
 作品の内容への評価と比べると、誰もが知っている作品・作家という評価軸は見落とされがちですが、その存在がどれだけありがたいかということを、時折は思い出したいものだなと思ったのでした。

性描写と音楽について

 ここまで何度か言及してきたように、本作では性と暴力と音楽についての描写が過去の作品と比べると明らかに薄くなっています。
 ではこれらは過去作品でどのような意味があったのかを考えてみると、大雑把に言うと、性描写と暴力行為は作品を広げるような効果を発揮することが多く、音楽は作品を編成してまとめ上げるような働きを主として期待されている感を受けました。
 なので以下では暴力には触れず、性描写と音楽について少し考えてみたいと思います。

 さて、作中の性的な関係において年齢という要素が具体的に加わったのは、『海辺のカフカ』からだと考えて良いでしょう。親と子ほどの年齢差があることが重要な意味を持っていましたし、それゆえに女性のほうが高齢という関係でした。
 それに対して『1Q84』では男性のほうが年上で、一回り下の女子高生との交わりが描かれていました。
 これらに作者の当時の年齢を重ねてみると、前者は女性とほぼ同じで50代でしたが、後者は60歳を目前にした作者がその半分の年齢の男性を描いていた形になります。

 いずれの場合でも、その性行為は「ぎこちない」ものであるべき必然性がありましたが、それを差し引いて考えても後者の描写には厳しいものがありました。
 このときに私は初めて作者の年齢を(より正確には作者の高齢を)強く意識させられたように思います。
 そう意識した上で冷静に考えてみると、例えば60歳の川端康成は『眠れる美女』を書いています。不能になるような年齢の老人が、睡眠薬で眠る十代の女性と同衾する物語です。『1Q84』とは作品の性質がかけ離れているものの、60歳の作家が性描写を書いても違和感が少ないのはおそらく『眠れる美女』のほうでしょう。

 とはいえ本作を読めば明らかなように、作者は老人の性を描く方向には興味を示さず、むしろ思春期のような性的に淡い関係を(30代のコーヒーショップの女性が相手でも)描くことで、年齢の問題を解決しようと試みているように思えます。
 この変化に対しては、好みを基調とした賛否が分かれるように思うのですが、今書けるもので作中の展開に大きな影響を及ぼせるもの、という意味では意外と成功しているようにも感じられました。

 おそらく音楽についても、同じような理由であろうと思われます。
 もはやヒット曲を持ち出したり、あるいは古いジャズやクラシックであっても強い思い入れを伴って作中に登場させるには、作者の感覚として難しいものがあるように思うのです。
 では音楽がかつて果たしていた重要な役割はすっかり消え失せてしまったのかというと、その代わりに作中で存在感を示しているものが一つ思い浮かびます。
 それはつまり、詩です。

 例えば本作では、いくつかの謎が説明されないまま放置されているようにも感じるのですが、実はそれらの謎は小説的な意味合いではなく詩的な意味合いで解決されているように思えるのです。
 あるいは、散文の中にふと詩の文句が混ざってしまったような描写が色んなところで観察できました。それら一つ一つは「そうかも?」という程度のものですが、何度もそうした気配と遭遇していると、もしかしたら(特に近年の)作者は、詩を強く意識しているのではないかと思えてきます。
 最初に書いたように、『クブラ・カーン』についてはそれほど深い意味合いを持たせていないように思えたので、余計に気になってしまったのかもしれません。

 ここで難しいのは、既に述べたように作者が「村上春樹」を演じるように、この作品を「最後の長編」と演じさせるように振る舞っている感があることで、読者に詩を意識させることもまた作者の掌上に過ぎないのかもしれません。
 と言うのは、詩を読み解くにはそれなりの素養が必要で、そこに作者独自の解釈が加わって、おそらくはリズムと理論を重視した構築がなされているように思えるからです。
 そもそも作品の構築といった精緻と技巧と経験と知識が問われるような側面では、年齢による衰えは他と比べると目立ちにくいものなので、それを読み解くのは、作品と作者を腑分けする困難さと同じくらいの難易度があると推測されます。

 そして困ったことに、クラシック音楽が重要な役割を果たしていた『1Q84』であれ、詩が重要かもしれない本作であれ、それらを読み解いて批評するのは我々日本人よりも西洋の人のほうが適しているように思われ、更に言うと他のアジアの国々の知識人と比べても分が悪いように思えるので、下手をすれば「村上春樹」という存在が日本文学の流れの中ではなく世界的な流れの中で先に確立してしまいかねないようにも思うのです。
 そうなったらそうなったで個人的には別に構わないのですが、日本文学という点では損失でしょうし、それはやはり寂しい気がするので、専門の方々には頑張って欲しいなと他力本願を掲げておきます。
 本作でさらっと出て来たレオナール・フジタは、さすがに作者一流の(?)ユーモアだと思うのですが、結論は好意的なものでも批判的なものでもどちらでも構わないので作品・作者ときちんと向かい合った日本語の批評がたくさん書かれると良いなと願っています。

おわりに

 最後は話をまとめるのが難しくて放談のようになってしまいましたが、何とか書き切れました。
 この『街とその不確かな壁』という作品を読まれた方が本稿に目を通して、何かしら新しい発見を得て下さると良いなと願いつつ、そうしたささやかな影響を与えられるような文章を書けるように今後も試行錯誤をしていこうと思っています。
 ここまで読んで頂いて、ありがとうございました!