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「souvenir the movie」がくれた贈り物

先日「souvenir the movie ~Mariya Takeuchi Theater Live~」を観に行った。竹内まりやさんの2000年、2010年、2014年の3回のライブからベストシーンを選び、併せて彼女の近況モノローグを撮り下ろした映像を編集したもので、とても楽しめるものになっていた。特に「プラスティック・ラブ」での山下達郎さんとの掛け合いは貴重な映像で、両名のファンにはたまらないものになっていたと思う。

映画がすばらしかったのはもちろんなのだが、そのすばらしさに背中を押されて、私は長らく残っていた「わだかまり」にひと区切りつけようと思った。

映画に使われていた2000年の武道館ライブ、実は私は生で見ていた。どのシーンも記憶があり、改めてあの日の空気、感動が胸の中に生き生きと蘇った。そしてそのとき一緒にライブに行ったひとのことも。

そのひとは同じ会社の人で、同僚として働いたこともある後輩の女性。仕事仲間としてそこそこ仲良くしていて、その流れでライブに声をかけたのだろうと思う。

お互い職場や仕事内容が変わっても時折連絡を取ったりしていたが、あることがあってほぼ断絶状態になった。詳細は省くが、私信として出したつもりだったメールを私の知らない他人に転送されてしまったのだ。共通の知人について質問され「あの人には気をつけろ」と、要は相手を貶める内容のもので、転送に転送を重ねて拡散されたあと誹謗の対象になった本人にそれが届き、私は対面で謝罪することになった。転送した彼女にも本人は釘を刺したらしいのだが、その件について彼女からは一切連絡はなかった。そんなことをメールで書く自分がそもそもよくなかったということは百も承知だが、それにしても知らぬ存ぜぬでこのまま通すつもりなのかと思うと腹立たしく許せないと思ってしまった。

以降私から直接連絡することはなくなり、昔の同僚と集まる席も彼女がいるから避けて、年賀状もコメント無しで向こうから届いたら出すということを何年か続けたあと、とうとう来なくなっていた。そうやって疎遠になったまま、それでもたまに昔の知人と会って彼女の名前を口にするのを耳にしては素知らぬ顔で「元気なんでしょうかね」なんて言いながら、自分の狭量さを突きつけられているようで、どうにもやるせない気持ちになるばかりだった。

武道館ライブでのまりやさんの歌声を映画館で聴きながら、「もう、いいんじゃないの」と思う自分がいた。あのときこのライブを一緒に楽しんだ彼女を、いつまでシャットアウトするの、いつまでこだわるの。許さないでいるのにもう疲れたんじゃないの。彼女のためというより、自分のために、鎧をはずしたくなった。

映画からの帰りの電車の中で携帯を取り出し、10年ぶりくらいに彼女のアドレス宛に短いメールを打った。ごぶさたしてます。竹内まりやのシアターライブ映画を見てあなたのことを思いだしました。急に寒くなってきたので風邪などひかれませんように。今書かないともう書けないと思った。古いアドレスなので届かないかもしれない、それならそれで仕方ない。えいっと送信ボタンを押した。

ほどなく着信があり、見たら彼女だった。連絡ありがとう、竹内まりやなつかしい、と。CD買おうかと思っていた、と。そして短い近況が書かれ、ご自愛くださいと締めくくられていた。

10年前と変わらない口調のメールに、それでも「連絡をした」ということでなんとなく伝わったのかな、と思った。これからも特別に仲良くするつもりはないが、仲違いのままでいる必要もなく、次に顔を合わせることがあればもう少し普通に話せるのかもしれない、と思った。抱え続けていた許せなさを手放せて、止まっていた時間がまた動き出し、少し心が軽くなったような気持ち。それはまるでまりやさんからもらった贈り物のように感じられた。

Oh I'm gonna try with a little help with my friends.


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