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日本経済の支那シフト

〔58〕「日本経済の支那シフト」
 前項で日本経済の支那シフトを概観したが、具体的金額や数量はわざわざ論うこともないと思うので割愛した。
 平成に入ってからすでに三十余年過ぎた。その間、地球上に突然出現したのがモンスター・チャイナである。シナ大陸で半眠りしていた野猪がゆっくり目を覚ましたと思えば、突然巨大化した。
 平成三年にはGDPで大韓民国に並ばれかけていた中華人民共和国が、日本を並ぶ間もなく追い越して米国に次ぐ世界二位の規模となり、莫大な予算を軍備に振り向けて軍事的超大国になり、今や世界平和にとって最大の脅威とされる存在になったのである。
 このモンスター・チャイナは自然発生したものではない。実は日本が意図的に中共経済を促成栽培した結果として出現したのであるが、しからば日本はいかなる理念に基づいて、そのような中京経済の促成栽培を計画し実行したものであるか。結論を謂えば、全地球から見て世界経済が発展する手段として、これ以外になかったのである。
 一九七二(昭和四十七)年は人類史の特異年であった。繰り返し述べたようにWWⅡ以後の世界で、様々な経過を経て唯一の覇者となった米国のドル覇権体制、具体的に言えば米ドル本位制(ブレトンウッズ体制)が行き詰まったのである。
 これを脱却するために結ばれたスミソニアン協定が束の間に破綻し、諸国が相次いで移行した変動相場が一九七六(昭和五十一)年にジャマイカのキングストンで開かれたIMFの暫定員会で承認されて、世界の通貨は「変動為替相場制」になった。
 ところが問題は米国に在った。ベトナム戦争の軍費と戦後処理費が膨大になり、国際収支と財政の双子の赤字を抱えた米国のレーガン政権がインフレ抑制のために極端な高金利政策を実施したことで弱小国の通貨危機が生じ、これを解決するためになされた一九八五(昭和五十五)年のプラザ合意で指名された日本が「円高ドル安」を実行する責任を負った。
 日本によるシナ経済の促成栽培は、実はこのプラザ合意の流れを受けたものである。外圧を受けて他律的鎖国状態となり半眠状態の中共経済を覚醒させて成長させる遠大な計画は片手間で実現できるものではない。
 この計画は日本経済を犠牲にして初めて実行できるもので、とりもなおさず「日本経済の支那シフト」である。首相竹下登が昭和六十二(一九八七)年に経世会を創ったのは自身がこれに当たるためで、田中角栄支配から完全に脱したのである。
 平成元(1989)年にリクルート事件で竹下がアッサリと挂冠したのは、自身が「日本経済の支那シフト」に当るため、と観るのが私見である。
 昭和六十二年の訪中でODAの第三次円借款供与を表明した竹下首相は、事前に中共側から環境問題を述べさせ、之に応えて遺棄化学兵器の処理を無償資金協力の対象として鄧小平に感謝された。このほかに日本画家平山郁夫を看板にした文化外交で日中国民の融和を図った竹下は、平成元(1989)年の天安門事件では、経済制裁を迫る先進国をなだめることで中共を苦境から救ったのである。
 一旦凍結となった第三次円借款の実施が樹立した日中経済関係が具体的にモンスター・チャイナを創り、安価な労働力に拠る軽工業品が日本市場を暴風のように襲い、日本で従来これを製造していた個人企業が軒並み廃業に追い込まれた。また百均グッズの販売も従来の個人商店を大規模チェーン店が代替し、大量の廃業をもたらしてシャッター街を輩出せしめた。
 このことは、住宅価格の暴落で持家のローン支払いが頓挫した都市住民と並んで、日本社会の中核を成していた中産階層の崩壊をもたらしたが、他にも本来預金者に帰すべき利息をゼロ金利政策で収奪して生じた低利資金を外資が仲介して中共産業界に廻したこと、および本来相当の対価を得て然るべき工業技術の移転を無償で行うなど、日本経済のキモたる資金技術を見返りなしに譲与したのである。
 これを要するに「日本経済の支那シフト」は、住宅価格の暴落で持家のローン支払いが頓挫した都市住民の貧窮化と並び、日本社会の中核を成していた中産階層の崩壊をもたらしたので、平成大停滞の中で呻吟する日本人から見たら、まことに不条理の極みであろう。
 尤も、これは暗い面だけではない。わが中小零細企業が、平成に始まったITの急激な発達と調和するには相当の犠牲が必要であることはいうまでもなく、世代の交代が促されたことで結局、日本社会もそれなりの便益を得たのである。
 かくして日本が犠牲になって世界経済全体に利益をもたらしたのが「日本経済の支那シフト」であるが、実は竹下登はその奥に大望を秘めていたのである。

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