【小説】カフェオレ・トランクス。

 安藤優は21歳の会社員だ。彼は薬局の店長をしている。優が勤める店舗は駅の地下街にあり、開店は6時から、閉店は24時まで営業している。客層は駅にある薬局らしく、社会人や学生が多い。しかし、その中には当然、厄介な客もいる。酔っ払いのサラーリマンや、店員の目を盗んで万引きをする学生など、問題も多くあった。その上、この薬局の従業員は、優が店長として就任する前から働いているベテランの女性パートばかりいる。どのパートも仕事はできるが気難しく、優が少しでも気の弱い所を見せると、お小言どころか大目玉を食らわしてくるのが常だった。その苛烈さは、同僚との酒の席で酔っ払った優が、毎度毎度口癖のように泣きべそをかくほどだ。優はテーブルに突っ伏し、周りの目も憚らずに声を震わせる。

「エリアマネージャーよりも、ベテランパートさんの方が、よっっぽど怖いんだよぉ!」

 日々ストレスで死んでしまいそうな優だったが、そんな毎日の中でも、唯一と言える癒しがあった。それは、同じ駅の地下に店を構えるカフェだ。元々無類のカフェオレ好きである優は、「新しいカフェがオープンするらしい。」と聞いて非常に喜んだ。
 カフェがオープンする当日、優はこの街の誰よりも早起きをした。優はその日休みだったが、仕事がある日よりもずっとずっと早起きをして、朝日を背に、カフェへと続く道をひた走った。
 朝6時には到着し、見事一番乗りをした優だったが、なんと、お店がオープンするのは朝8時からだった。事前に開店時間も調べていた優だったが、あまりの浮かれ具合に二時間も早く到着してしまったのだ。シャッターが閉まっている店の前で待つのは申し訳ないわ、良い大人になってこんな失敗をする自分が気恥ずかしいわで、優はしばらくの間、店の前で立ったりしゃがんだりを繰り返した。

 結局、優は薬局のバックルームにお邪魔して、開店時間まで待機させてもらうことにした。一度マンションの方に戻ることも考えたが、一秒でも早く新しいお店のカフェオレが飲みたかった。
 優の話を聞いたベテランパートの山田さんは、全身を使って「呆れた。」と言った。
「いくらオープン当日とはいえね、何もディズニーランドじゃないんだから。店長みたいに浮かれる人なんていませんよ。」
 優は自分のカフェオレに対する愛を軽んじられたような気がして、少しムッとした。しかし、何か反論しようとすると、山田さんのあの、「有無を言わさない閣下(ベテランパート)の眼光」にすくんでしまうのであった。

 山田さんの圧力に潰されるようにして、優はしおしおと体を縮ませた。そして、いつの間にか、バックルームの椅子に座ったまま爆睡してしまっていた。目覚めた時にはもう遅く、今度はカフェの開店時間をとっくに過ぎた10時になっていた。
「わぁー〜〜!!しまったぁぁぁぁ。」
 すぐさまスマホを取り出し、カフェのSNSを確認してみると、「大盛況です。ありがとうございます。ただいま大変混雑しており、1時間待ちとなっております。」と書かれていた。
 優はへなへなと机の上に倒れこんだ。そんな優の目の前では、優雅にお弁当を食べている山田さんがいる。優は山田さんへの恐れを全て忘れて、いかにも憎々しげな視線を寄越した。山田さんは意に介さない様子で、こともなげにこう言った。
「私は起こしましたよ。それにね、いくらディズニーランドじゃないとはいえ、オープン日はそりゃ並ぶことだってあるでしょう。」
 優は半泣きになりながら、急いで立ち上がった。今度は人混みをかき分けながら、薬局とは真反対の位置にあるカフェへとひた走った。

 1時間半もの時間を経て、ようやく優はカフェの席に着くことができた。全身から花のエフェクトが出そうなくらい嬉しそうな優に、カフェのスタッフがレシピを持ってきてくれた。スタッフは慣れた動作でレシピを開き、「当店のおすすめは…。」と言葉を続けた。しかし、優は厳かな雰囲気で右手を挙げ、店内中に響くくらいの大きな声で言った。 

「カフェオレを!」

 優は大声を出してしまい、申し訳なさと気恥ずかしさでいっぱいになった。しかし、スタッフが注文をとり、キッチンへと戻ってからというもの、優は居ても立ってもいられないほど気持ちが高揚していた。
 一体どんなカフェオレなんだろう。ミルク感が強いのか、それともコーヒーの苦味がしっかりあるのだろうか。立地的に様々な年齢層の顧客をターゲットにしていそうだから、万人に受ける甘めのカフェオレかもしれない。しかし、このシックな作りの店内を見ると、やや大人向けの苦いものかもしれない…。
 優はあれこれと味の想像をしながら、まだ見ぬカフェオレに思いを馳せた。とにかく楽しみで、待ち遠しくって仕方がない。
 ……思えば、朝から大変な一日だった。せっかく早起きして、走ってきたのに寝坊してしまうし。山田さんは相変わらず怖いし。
 毎日毎日ストレスフルで、酔っ払いやら、万引きやら。あぁ…本当に。でも、どんな日々もこの時のためにあった。今日のカフェオレのためのに自分は生きてきたのだーー…そうとすら思った。

 コツ、コツ、コツ…。

 優は集中して目を閉じた。それから、じっと耳を澄ましてみると、賑やかな店内の中、自分の方へと真っ直ぐに向かう足音が聞こえてくる。重ねて、カップの中の液体が揺れる、たぷんたぷんという豊かな音。それからーー…。

「お待たせしました。」

 優はその声を聞いた時、まるで、アルト・サックスのようだと思った。苦味と甘さの甘美な音色が妙に色っぽい。優はドキドキしながら、声の主を確認した。声の主は、さっきのスタッフとは別の、まだ若い女性スタッフだった。薄く柔らかい茶色の髪はウェーブのポニーテールで、きめ細かい白い肌が店内の間接照明の下、陶器のような輝きを放っている。
 優は彼女のあまりの美しさに放心した。「目が釘つげになる。」というのは、恐らくこういうことなんだと、その時初めて思った。彼女の周りだけ何か白い輝きが発光しているように思えて仕方がなかった。
 しかし、肝心の彼女はというと、まるで「そんな反応には慣れている。」とでも言いたげに、淡々とカフェオレの説明を始めた。
 豆の原産国、使っているミルクのこだわり、甘さと苦さの比率など…。彼女は様々なことを説明してくれたようだが、優は全く話が入ってこなかった。
「仕事は終わった。」とばかりに去っていく彼女の姿を目で追いかけながら、優はコーヒーカップを持ち上げた。そして、彼女から目を逸らせないまま、「少し冷ましてから飲むように。」と言われていたはずのカップに口をつけーー…。
「あっっっっっっつ。」
 ……本日、三度目の大恥をかいた。

 それからというもの、優はどんなに忙しい日でも必ず毎日カフェに通うようになった。しかし、一週間経っても、三週間経っても、一ヶ月経ってもカフェオレの味はわからない。ただ、彼女がいる日は彼女の姿を追いかけ、彼女がいない日は彼女の姿を妄想しながら、至高の一杯を嗜んだ。彼女のことを考えながらカフェオレを飲む時間はあまりに幸せで、優はカフェオレの味が少しもわからないまま、それでも、気づいたらカップが空になっているのが常だった。

 優のカフェ通いが続き、ちょうど一年がたったある日のこと。いつもの如く店に訪れた優に、彼女が突然話しかけてきた。
「カフェオレ、お好きなんですか。いつも同じものを飲んでるから。」
 突然のことに驚いてしまった優は、慌てふためき、しどろもどろになりながらも答えた。
「エッ、アッハイ……。だだだだ大好きです、いっ、いちばん。でも、まだカフェオレの味がよくわからなくて……。」
答えた後に、「しまった。」と思った。一年も同じものを飲み続けて、「味がわからない。」なんて、とんだバカ舌だ。彼女にきっと失望されてしまうーー…。そう思いながら、恐る恐る上目使いで彼女の姿を確認すると…。

「アッーーッ。ハッハッハッハッハッ。ヒィッッッーーー。」

 美しい女神の彫刻だった表情が、天晴れなほどに破顔していた。彼女の大きな笑い声は店内に響き渡り、怪訝そうな視線が一気に集まった。それでも、彼女は全く意に介さない様子でゲラゲラと笑い転げ、しばらくすると「あっー、おかっしい。」と言いながらキッチンに戻って行った。
 彼女の意外な一面に少々面食らった優だったが、いつものむっつりと押し黙った表情とはまた違う良さがあって、それが、なんだか、とても嬉しかった。
 優が帰る間際、彼女は自分のメールアドレスを書いたメモを渡してきてこう言った。

「ねぇ。よかったら今度、私がお家に行って、カフェオレを淹れてあげましょうか。」

 思えば、その一言が、優と彼女ーー…今井日向が付き合うきっかけだったのだ。だが、交際をスタートさせてから、付き合って三ヶ月目となる現在まで、日向は優の家でカフェオレを淹れたことがない。日向にそれとなく聞いてみると、いつもはぐらかされてしまうのが常だった。しかし、優はそれを不満に思ったことは一度だってない。「彼女が自分の為だけに淹れてくれるカフェオレ」の特別感に思いを馳せる毎日は実に幸福だからだ。それに、日向は本当に素晴らしい女性だった。彼女は意外なことに、クールそうな第一印象とは違い、かなり家庭的な人だった。
 優と日向は同い年だが、社会人と大学生という違いがあった。優は高校を卒業した後、薬局に就職し、若いながらも三年目には店長をやっている。一方で、日向は大学生で、ゆくゆくは「独立して、カフェのマスターになりたい。」と、経営の勉強をしている。日向は忙しい優を慮り、時々優のアパートに来ては代わりに家事をやってくれるのだった。

 優は日向を深く愛し、愛すべき人がいる日々をこれ以上ない幸福だと思っている。仕事帰り、今日も今日とて、赤く染まった夕焼けに自分の恋心を重ねながら、飛び跳ねるような気持ちでアパートへと帰った。今日は日向が家にいる。一刻も早く彼女に会いたい。
 ようやく優が住むマンションが見えた頃。10階のベランダを確認すると、見知らぬトランクスが一つ干してあった。日向はいつも洗濯をしてくれるが、あのトランクスは自分の趣味ではないし、買った覚えも、履いた覚えもない。なんてったって、ヒョウ柄だ。
 優は先ほどとは違う種類の胸の鼓動を感じ、急いで自宅へと戻った。「まさか自分がいない間に他の男と…?」そう考えると、いてもたったもいられなかった。

「ひひひひなたちゃん!!!えええぁえあ、あのトランクス!え、だっっだ誰の。」
 駆け込むようにして優が玄関の扉を開けると、キッチンから姿を表した日向が出迎えてくれた。彼女は右手にコーヒーの入ったカップを持ち、左手には高そうなパッケージのミルクを持っている。
「ぇ、あ、カフェオレ!?!?…って、そうじゃないそうじゃない。トットランクス!ヒョウ柄の!!!」
 優は悲しいような、怒るような、日向を信じたいような、それでも疑いきれぬような、とても複雑な表情をした。それなのに、肝心の日向は実にケロリと言った様子でこう答えた。
「あぁ、優くんの洗濯のついでに、自分のも一緒に洗っちゃったの。」
 優の耳にアルト・サックスの声がこだまする。
「え?…あれ、自分の…?はっ!もしや日向…ちゃん…。」
 驚いた表情の優を意に介さない様子で、彼女(?)の日向は無言でコーヒーにミルクを注いだ。湯気がたちのぼる茶色のコーヒーに、白く甘いミルクが注がれて、カップの中身がマーブル状になる。
 …ふいに、日向が挑戦するような目つきで優を見た。途端に優は泣きそうになった。しかし、次の瞬間、優は覚悟を決めた顔で日向に向き直り、こう言った。
「僕は日向ちゃんの性別が男の子でも、全力で愛すよ。」
 そう言った後に、「しまった。」と思った。優は今まで、日向のことを大切に思うあまり、なかなか日向の体に触れることができなかった。しかし、そういう自分の接し方が、知らず知らずのうちに彼女…彼…のことを不安にさせてしまっていたんじゃないだろうか。日向が今まで自分に何も告白してこなかったのは、そういう自分を頼りなく思っていたからじゃないのか…。それに気づけなかったなんて、とんだバカ者だ。今更こんな発言をしたところで、日向はとっくに自分に失望しているに違いないー…。そう思いながら、優は恐る恐る日向の方を見た。すると…。

「アッーーッ。ハッハッハッハッハッ。ヒィッッッーーー。」

 それは、いつか見た天晴れな破顔よりも、ずっとずっとダイナミックなものだった。野性のヒョウが大自然をのびのびと躍動するような。 笑い声は10階建てのマンションを地から揺るがすほどの大声だった。アルト・サックス?まさか、トロンボーンみたいだ。
 日向はまだ笑い足りないといった様子で、時々声を震わせながら優の誤解を解いた。
「ふふっ…バカねぇ。今は…ブッ、女性用トランクスっていうのもあるのよ。パンツより楽だから、私はそっちを履いてるの。それに…。」
日向は優の顔をじっと眺めて、綺麗にウィンクした。
「ヒョウ柄は私の趣味よ。」

 その夜、優と日向は初めて一緒にカフェオレを飲んだ。彼氏を想うあまり、「下手なものは出せない。」と日々コーヒーを淹れる練習をしていた彼女のカフェオレは、日向にとっては顔が熱ってしまうほど甘みが強すぎて、優にとっては一生忘れられないほど苦かった。

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