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時間が止まった、けれど、進む

失恋、離婚、友人同士、親族間のトラブル……。
精神的にダメージを受ける経験をしたとき、それを第3者に話してこう言われた経験がある人は、少なくないだろう。

「前を向いて頑張ってね」
「生きてればいいことあるよ」

仲の良い人から、相談を受けたとき、「チカラになりたい」と思う人は少なくないだろう。言うか言わないかは別にして「まず励ましたい」と思って上述の言葉がよぎった人は少なくないと思う。

僕もその言葉を幾人にかけられてきたうちの1人だ。
2021年、婚約者と死別して以降、何回も「前を向いて」と言われてきた。声をかけてくれた友人・知人に恨みはないが、僕はその言葉が嫌いだ。

時間は戻らない。どんなことがあっても前に進む。
それは、わかっている。けれど落ち込んでいる人に対し「前を向いて」とのひと言だけで、その人の時間も前に進ませるのは、個人への冒涜のように思えるからである。

しかし、一方でその言葉を選んでしまう人の気持ちも分からなくもない。
先述のとおり時間は進むのみである。であるなら「少しでもポジティブに過ごしてほしい」と考えるのは、聞き手の心理として自然だろう。そう考えたとき、「前を向いて」は、『元気になってほしい』という想いを乗せる上で、ちょうどよい言葉なのだろう。

では、「前を向いて」は、メッセージ性が強いことばにも関わらず、なぜ言われた側をもやもやさせるのか。その原因を紐解いてみたい。
ここからは僕の死別経験をベースに書いていくので、読まない人はここでブラウザバックしてほしい。

僕が辿り着いた今の結論は、こうだ。

「死別を経験すると時間がとまる。でも実生活の時間は動き続けているから」

たとえば失恋をすると、ダメージはあれど、日常の中で「あれ、あの人のこと気になるかも……」と思う瞬間がある。失恋をしても、ふとした瞬間にパートナーが欲しいと思ったり、自身の老後を考えてパートナーを探す人もいるだろう。これに該当しない人もいると思うので厳密には断言できないが、「時間が動いている」のだ。

が、死別経験者、もとい僕の経験上では、そうなっていない。
なぜなら、望んでいた日常はもう送れないから。
この先、新しいパートナーができたとしても、それは僕と彼女が描いていた日常ではないし、新しいパートナーができたとしても、(僕で言えば)パートナーとの死別がなかったことにはならない。いわゆる第2の人生を歩んだとしても、婚約者への想いは消えない。

婚約者がピンとこない人は、ご自身の親族で考えてみて欲しい。親、兄弟が亡くなって、周りから「新しい人見つけなよ。前を向いてればいいことあるよ!」と言われたら、『何言ってるの?、うるせーよ』と思うだろう。
これも、いろんな形があるので断言はできないが、親愛する人はそう何人もいない。

実生活の時間は動き続けていく。加えて、死別を経験していない人はシンプルに「元気になって欲しい」と思うからこそ、「前を向いて」と声をかけるのだろう。
しかし、死別を経験した人は、亡くした人を想いながら1秒1秒を生きている。その想いは大切な人を好きになったその日も、今も変わっていない。

時間は過去・現在・未来の3軸で語られがちだが、大切な人への想いはあの日のまま。実生活の時間がどれだけ進んでも「過去」にはならないのだ。
一方で、僕がどう思っても実時間は進み続ける。死別を経験していない人にとっては、僕の死別は過去の出来事になっていく。

この埋めようのない認識の差が「前を向いて」が感じさせる、もやもやの正体なのだろう。

最後に1つだけ言わせてほしい。
「解決しよう」なんて考えなくていい。気の利いたことも言わなくていい。ただ、話を聞いてくれるだけで嬉しいよ。

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