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『コンテンポラリージュエリー』ジュエリー表現はアートになり得るのか/表現者♯2

理解し易いジュエリーと理解し難いジュエリー

私がジュエリー表現作品の制作活動を通してよく耳にするのが、コンテンポラリージュエリー(以下CJ)分野は、一般的なジュエリー分野からは理解し難いと言われ、アート分野からは物足りないと言われています。このどちらにも属さない中途半端な立ち位置が良くも悪くもCJ分野の今を象徴していると思いますが、この現状を打破し、2020年以降のCJ分野の可能性を広げる為に後者の意見を参考にして改善する必要性を感じています。

“理解し易いジュエリー”とはコマーシャルジュエリーやファインジュエリーと言われる一般的な宝飾品、もしくはコスチュームジュエリーやファッションジュエリーなどの着用者の満足度と消費される商品/既存の価値を用いた作品のことだと思います。細部にまで拘った高度な技術力、素材の魅力を最大限に引き出すデザイン、周囲とは少し異なったアイデア、ぱっと見のインパクト…。全てとは言いませんが、これらの美意識重視のジュエリーは歴史を遡ってみても、富裕層から大衆にまで受け入れられてきた“理解し易いジュエリー”と言えます。資本主義の象徴として消費者の存在が第一であり、制作者(デザイナーや職人)は時代の流行や歴史、着用性を重んじて作品を生み出していると思います。

一方で“理解し難いジュエリー”とはアーティスト/表現者が価値観のアップデートを試みた作品です。美しさの追求から解放され、消費者に合わせることよりも表現者の思想が強く反映されることにより、作品の説明を受けなければ全てを読み解くことは困難かもしれません。これは現代アート作品と共通する部分があると思いますが、視覚的な表現とテキストはセットであり、これらを複合して鑑賞しなければならない点が理解し難い要素となっているのです。ジュエリーなので着用にフォーカスして楽しむことはもちろん可能ですが、作品の意図を読み取る鑑賞ベースの楽しみ方を個人的には推奨したいです。また、「アートを身につける」と言ったキーワードも耳にしますが、実際に“アート”を作って身につけてもらおう!と考えているCJ分野の人間はほぼいないのではないでしょうか。なぜなら、もし“アート”作品が完成したのであれば身につける必要性がないからです。身につける行為を含めて完成する作品はあるかもしれませんが、身につける以前は未完成であり“アート”にはなっていません。あくまでジュエリー表現は手段であり、CJ分野の作品は「(表現したいことが)ジュエリーとリンクしたアート」に近いのかもしれません。

以上が私の考える“ジュエリー”と“ジュエリー表現”の違いです。

では次に、CJ作品に物足りなさを感じている現代アート分野の作品と決定的に異なる点は一体なんでしょうか。それは作品を構成するレイヤー数の差です。純粋な芸術作品に対して“着用機能を持つ”ことは大前提として異なりますが、それ以外にも多くのCJ作品は圧倒的に“厚み”が足りていません。CJ分野の作品を現代アート分野でも通用するためにはどうしたら良いのか、私が意識している作品を構成する最低限の要素(レイヤー数)は動機、視覚、素材/技法、機能、総合の5つです。一見当たり前のような内容ですが、この項目全てを用いて作品を組み立てているCJの表現者は何人いるのでしょうか。それぞれの項目で現代性や社会性を意識できているのでしょうか。以下、5つの構成要素が入っている3点のCJ/ジュエリー表現作品を例にあげて具体的にその内容を解説してみたいと思います。

ジュエリー表現の作品例

【その1】
Otto Künzli(スイス/ドイツ 1948-)
《ビッグ・アメリカン・ネックピース》1986年/ペンダント/ステンレス
一見するとトゲトゲして「身につけたら痛そう」と思われる作品だが…

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※写真 OTTO KÜNZLI / DAS BUCHより

1:動機
人種の坩堝と言われるアメリカ訪問をきっかけにして良い意味でも悪い意味でもカオスな文化を目の当たりにした。
2:視覚
各宗教や文化の象徴的なシルエットを13種類選んで使用し、そして全てが一本に繋がることによってアメリカ合衆国という多民族国家を表している。
3:素材/技法
CJ作品の一部として使用され始めてまだ歴史の浅かったステンレスがアメリカという国家の短い歴史とリンクする。またステンレスという素材は工業的需要の上昇による近代化の象徴にも繋がる。
4:機能
置かれているときは各板が離れているが、首にかけるために持ち上げると重力で下に板が密集する(ペンダントの状態)。その時に素材の特徴(他の金属にはない硬さ)からお互いが擦れ合って必然的に傷がつく。エッジの鋭利さや擦れる音が着用への嫌悪感を演出する。
5、総合
愛国的な自己主義/アメリカは世界の中心として文化や経済が急速に発展しているポジティブな一面が目立つ一方で実際は多くの問題を抱えている。といったメッセージを、一つの輪の中で互いに干渉し合うシンボルを利用して表現している。


【その2】
David Bielandar(スイス/ドイツ 1968-)
《Cardboard》2015年/バングル/ゴールド、ホワイトゴールド
一見すると子供がダンボールで作った手作りの腕時計に見えるが、、、

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※写真 作家提供

1:動機
日常に溢れているダンボールへ着目。ネット通販などで簡単にいつでも好きな商品が配達される便利な時代だが、一方で移民問題や失業問題でダンボールを敷いて路上生活をしている人たちもいる。この貧富の差は重大な社会問題である。
2:視覚
ダンボールを切ってホチキスで留めただけの子供が遊びで作ったような単純な見た目(無価値の象徴)。本物と見間違えるほどのリアリティの必要性。
3:素材/技法
歴史的にゴールドはより美しく豪華(高価値)に見せるべく試行錯誤されてきたが、あえてダンボールという低価値へ見せようとする逆方向へのアプローチ。
4:機能
身につけた人は見た目との重さのギャップ(ゴールドと紙)に驚き、観る人は第一印象で着用者がダンボールを身につけている変わった人だと感じるが、本当はゴールド製だと知ると見る目が一変する。価値を決めるのは外面か内面か。
5:総合
「価値があるモノ」というフィクションに振り回される現代社会を象徴し、資本主義時代の盲目的な価値観や先入観について今一度問いかける。


【その3】せっかくなので筆者の作品も。
寺嶋孝佳(日本/ドイツ 1986-)
《Family necklace》2019年/ネックレス/漆、家族の髪の毛、紐
黒い球が連なっているビーズのようだが…

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1:動機
子供の誕生により、自身の死後の現実世界における社会情勢や地球環境などを初めて気にかけるようになった。
2:視覚
連なりの象徴、世代を超えて代々受け継がれていく側面を持つクラシックなパールのネックレスや数珠をイメージ。また髪の毛を使用した歴史的なジュエリー(モーニングジュエリー)のアップデート。
3:素材/技法
数千年以上という時代を超える強い素材としてデータが残っている漆と髪の毛を用いることで、作品の永遠性を強調している。特に日本では断髪式などの髪を切ることは神聖な儀式や大事な節目としても捉えられる。
4:機能
世代ごとに新しい“珠”を制作し、紐に通してどんどん数を増やしていく。なので紐を結んで輪の状態(着用可能)になることはなく、未来永劫完成しない(してほしくない)。
5、総合
この作品が完成せずに代々受け継がれるには、漆の木が育つこと(環境問題)、漆職人がいなくならないこと(後継者問題)、次の新しい世代が誕生すること(少子化問題)を現時点から問題解決に向けて改善、意識しなければならない。というメッセージ。

以上、3点を紹介してみましたが、個人的に私の作品は巨匠の二人と比べると気になる点がありました。それはどこだと思いますか?

私の分析だと、視覚的な表現の弱さ、言ってしまえばデザインや見せ方の甘さだと考えました。散々テキストやコンセプトが大事だ!みたいなことを書いてきましたが、結局のところ“モノ”に強さが無ければ誰の目にも留まることはありません。具体的に説明すると、外見は現代性や独創性を追及し、内面は社会性やメッセージ性を秘めている作品が、成功している多くのアーティストに共通してみられます。私の作品は既存の形を敢えて取り入れていますが、球の大きさ、テクスチャーの有無、紐の扱いなどをもう少し吟味する必要があったかもしれません(クラシックな形×クラシックな素材/技法は視覚的な斬新さに欠ける)。今回の分析を機に、この作品をブラッシュアップさせていく予定です。どのように表現するのか、造形やデザインには無限の可能性があります。

また、よく勘違いされるのですが“視覚的表現=造形の面白さ”ではありません。物体として存在しない映像やパフォーマンスなどの多様な表現方法/メディアが、ジュエリー表現の一部として作品になり得ます。今回紹介した作品が制作プロセスの中で素材と技法を重要視しており、たまたま造形やデザインについて考える必要があったというわけです。個人的には直接素材に触れて加工する表現方法が好きですが、必ずしもこの方法がベストだとは限りません。またはジュエリーとしての機能から遠ざかる/捨てる表現方法もあるかもしれません。表現者は“作ること”に固執せず、時代を感じ取るセンサーと柔軟さが求められています(工芸的ではないアプローチをしている表現者については今後紹介します)。実際に私はCJシンポジウムの企画やこのnoteの投稿についても表現活動の一種だと捉えています。現代に生きる人の為だけでなく、未来の人とのコミュニケーションツールとしてジュエリー表現作品が機能するのではないかと考え、様々な方法で試行錯誤中です。

まとめ

2回に渡って色々と書きましたが、これが絶対に正しいCJ作品の作り方ではありませんし、将来的にアート作品として評価されるようになるかもわかりません。あくまで個人の分析であり、一つの可能性です。作品の核を形成するために装身具史を学び、視覚的な表現の幅を増やすために他分野と交流し、全てが一つにまとまることによって初めて作品が完成します。また、一般的なジュエリー作品とアートを目指すジュエリー表現作品とは同じ“ジュエリー”という表記がついていても方向性が全く異なり、はっきりと線引きしても良いのではないかと個人的には思います。もちろんどちらが良い悪いというわけではありません。私は本気で“CJ/ジュエリー表現作品を現代アート業界で評価してもらう為にはどうすれば良いか”を考えているからで、その為には“ジュエリー”という単語の持つイメージから抜け出す必要性があると感じています。なのでコロナパンデミック以降、一人でも多くの表現者、理解者、協力者が増えることを願って今後も情報発信を継続していく予定です。

引き続きご意見ご感想お待ちしています。

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