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人はスマートシティにもパンジーを植えるのか? テクノロジーに飲み込まれた第三風景にも抗う「亜生態系」:連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:山内朋樹

スマートシティにおいてテクノロジーが繁茂し、暴走し始めた時、人類はそれにどのように抗うのか。ジル・クレマンの提唱する第三風景、そして、被災地に植えられるパンジー。それらについて考察を続ける庭師・美学者である山内朋樹氏に「自然、テクノロジー、抗うもの」の三者の関係について、それを示唆し得る視点をうかがった。

Photo by nichiiro on Unsplash

山内朋樹(京都教育大学 教育学部)
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)
石川初 (慶應義塾大学 政策・メディア研究科)

ジル・クレマン『動いている庭』との出会い

石川:山内さんは、プロフィールに、造園家とかデザイナーとかではなくて、「庭師」とお書きになっていますね。

山内:はい。学生の時たまたまアルバイトで始めて、最初に出会ったのが「庭師」だったんです。大学院生として研究をしながら、庭師をして食べていました。そして庭師と言ったまま大学の先生になってしまった(笑)。アルバイトをはじめた学部生の頃はまだ「ランドスケープ」というディシプリン(専門領域)があるということも知らなくて、自分を庭師と規定したまま来てしまいました。

石川:設計はされないんですか?

山内:建築とかランドスケープをやってる方から驚かれるんですが、庭師って平面図を描いたり、仕様まで書くような設計はしないんです。最近はやるところが多いですが、そもそもは自然石などの材料をドカンと持ってきて、身体的な感覚をもとに庭をつくっていく。いろいろなパースペクティブに立ってみて、「もしここに石や木がこうあったら」と考えてみる。その分散しているパースペクティブの総合として庭ができてくるんです。庭師はある一定の高さを超える工作物は建てられないので、設計もやりたかったですけど。

石川:庭に興味を抱かれたきっかけは?

山内:僕はもともと絵画とかインスタレーションをする「つくる人」だったんです。大学のインスタレーションの授業で、庭の仕事は木一本、石ひとつで空間を大きく変えることができるんだという話を聞き興味を持ったのが始まりです。理論に興味を持ったのは庭師になってから。今、京都教育大学で美学や美学史を教えています。その中でひとつだけ、理論ではない「作庭実習」という謎の講座をやっていて、学生と一緒にガチで剪定たり庭をつくったりしています(笑)。

石川:私が山内さんのお名前を最初に知ったのは、はジル・クレマンの「動いている庭」の訳者としてでした。ジル・クレマンとの出会いはどのようなものだったのですか。

山内:院生の時、フランスの留学から帰ってきたばかりの先輩がいたんです。彼から「おもしろい人がいるんだけど」と紹介されたのが、ジル・クレマンの『動いている庭』(*)でした[1]。
 読んでいるうちのめり込み、博士課程の1年生の時に岡田温司という美術史の先生が主催しているフォーラムで『動いている庭』について発表をしました。それを聞きつけたみすず書房の編集の方から依頼が入り、『動いている庭』を翻訳して彼の思想を日本の皆さんに紹介することになったんです。
【*註 ジル・クレマン『動いている庭』:アンドレ・シトロエン公園やケ・ブランリー美術館の作庭で知られる、フランス人の庭師、ジル・クレマンの著書。「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」という独自の哲学で、現代造園の世界に新たな1ページを開いた作庭論。1991年発行、山内朋樹氏によって和訳され2015年に日本語版が発行された。この他の作庭論として『惑星という庭』(1999年)、『第三風景宣言』(2004年)などがある】

石川:植物が頻繁に「動いている」ことを、園芸家は身体感覚としてよく知っていて、私の知り合いは「花が逃げる」と言うんです。「とどまらせようと思ったら土を入れ替えて、植物を逃げた気にさせないといけないんだ」って。

山内:僕も「動いている」ことは感じていました。同じ場所に何年も通っていると、木の下に謎の群落が勝手に発生したり、ヒヨドリなんかが運んできた種からすさまじい草木が生えてくるのに出くわします。樹木はある程度その場所にとどまっていますが、その子どもはどこかに移動していたりする。
 ある意味で庭師は、動いた庭を1年前の状態にできるだけ近づけるように手入れするんですが、クレマンの『動いている庭』を読んではじめて自分がやっていたことの意味に気づきました。「植生遷移」という植物の構成がどんどん変わっていって極相(安定期)に至るという流れがあるとすると、庭師としての僕はその庭が理想とする遷移のある局面に繰り返し立ち返らせるような行為をしていたんです。
 日本で初めて『動いている庭』を発表した時、アマチュア園芸家のおじいさん、おばあさんたちから「うちの庭も動いているんです」と声を掛けられました。「マジですか?!」とお応えしましたけど(笑)。

石川:それ、めちゃいい話ですね。

山内: 画期的だけれども、わかっていたことなんですね。みんなが体感できる。ちょっとした誤解も含みつつですが、とにかくその着想を自分のものにしていけるというところが「動いている庭」という概念が広く受容された理由なんじゃないかなと思います。

庭師の植物とのつきあい方

本江:クレマンは、「できるだけあわせて、なるべく逆らわない」——「変化してもいいじゃないか」と言って、手放した。それもありだという美意識・価値観を持ち込んだ、という理解でいいですか?

山内:いや、庭というのはやっぱり人間が手を入れるものですね。日陰が嫌いな植物は日向に出てこようとするし、湿ったところが好きな植物はそういうところに生える。植物は敷地の中で自分自身の本性に従って勝手に分布していきます。しかし、そこで終わっていたら、それはもう自然そのものですね?

本江:確かにただの山ですね、それは。

山内:クレマンはそこから形を切り出していくんです。例えば人間が通れるようなルートをつくったり、島をつくったり。植物の分布をよく観察してその分布を温存させながら形を整えていく。完全に人間がデザインするわけではなくて、植物自身がつくった分布が庭に転写されていく。植物にも「主導権」というか、「能動性」があって、それをたどりつつ形を切り出していく。
 ただ、逆にクレマンの言う「第三風景」は都市の中の空き地や放棄地を評価する言葉で、「人間の手がはいっていない」ということを非常に特権化しています。

本江:なるほど。

中西:山内さんのお話の中で出てきた、「植物に導かれながら、何かわからない場所にたどりつく」ような手入れの仕方を表す動詞は何かありますか?
 「管理」という言葉は、ある理想状態があって、それにそぐわないものを修繕したり、ずれてしまったものを元に戻したりすることなので、庭に「管理」という動詞を使うのはそぐわない気がします。
 例えば、コンピュータの場合は“interaction”という言葉を使いますし、人類学者のティム・インゴルドは、人間と技術のせめぎ合いは常に発生していて、それによって人間は新しい人間に生まれ変わっていくのだ、という概念を“correspond(応答)”という動詞で表現しています[2]。
 この動詞をうまく言い当てられると、これからのテクノロジーとの付き合いかた、モダニズム的ではない都市のあり方というのが見えてくるんじゃないかと思うのですが。

石川:公園のメンテナンスは完全に「管理」ですね。マニュアルに従って手入れをする。
 庭師の方は、種から実生(みしょう)で勝手に生えてきたものを抜くこともあれば、残しておくこともあって、「これはヤブコウジだから、ほっておいてええねん」とか、なんとも言えない言葉の使い方をしますね。

山内:します、します。

中西:それはなんと呼ばれているんです?そういう態度は。

本江:「手入れする」とか、「世話する」というのは上から目線ですよね。植物に任せるというか、よき状態を経験的に自分は知っていて、そのようにする、生えてきたものをそのままよしとする、というような態度ですね。

山内:「ほっとく」というのはよく言いますね。
 いわゆる下草の手入れは掃除の局面で出てくるんです。基本的に地面に生えているものには最後の掃除で手を入れる。下草を抜くか、抜かないかというのは、ある程度個々の庭師の判断に任されています。
 剪定について、さっき話をわかりやすくするために1年前の状態に戻すという言い方をしましたけど、実際、戻っていないんです。いつも同じ形をしているように見えるマツでさえも毎年枝が入れ替わっている。毎年毎年違う形で、しかし、ある状態をキープする感じですね。
 手入れについてのおもしろい言葉遣いというと、年配の庭師の方々は植物が主体性を持っているかのように「○○してあげる」という言い方をします。

中西:それって、植物がこうしたら喜ぶだろうな、みたいな気持ちが庭師の方にあるという感じなんですか?

山内:そうだと思いますね。ただねぇ、とはいえ切りまくっているわけですが(笑)。

地域によって違う植物観

山内:昔、ドイツかどこかの環境哲学者の方に日本の庭を案内しながらその話をしたら、めっちゃ怒られました。「植物がそれを望んでいるのか?」とか言われてね。

本江:日本の庭作りの技術は、芝生にならないところを無理やり芝生にする技術としても認識されているんじゃないですかね。放っておいたら咲かない花を咲かせるとか、無理やり水引いてくるとか、極相に抗う技術ではあるんですよね。

山内:日本の庭は小さいので、大きな雑木(広葉樹)を入れる時はスケールの管理が一番重要になってくるんです。自然な樹形を保つために、いろいろな更新の技術も生まれてくる。自然界の長いスパンの時間の中で、いずれ枯れて落ちていくであろう枝はあらかじめ切ってしまう。「○○してあげる」という言い方は、ようするに「先回り」するという感じなんですよね。

石川:日本の気候の中では、手を抜くと非常にワイルドになってしまうことがあって…

中西:草茫々になりますよね。僕が1年前に戸建てに引越して庭の草むしりをした時に、一番怖かったのは巨大なノアザミでした。トゲもすごいわ、綿毛もすごいわ、ノアザミの凶暴なアルゴリズムに家が侵食されているような気分になりました(笑)。

石川:日本と、氷河期の打撃が大きかったヨーロッパとは、自然にあることに対する感覚がちょっと違う感じはしますよね。

本江:「動いている庭」は、日本ではちょっと厳しいものがありますね。

山内:クレマンは「動いている庭」が一番楽なやり方なんだと言っていますが、日本でそのまま実行したら2メートルの雑草に覆い尽くされますよ。5月の頭に一回草刈りしても、もう5月末には膝丈越えていますからね。

石川:日本だったら、クレマンの言うやり方の3倍くらいのスピードでやらなければだめですね。ジャカルタだったらその3、4倍くらい。2年に1度、焼き払わなきゃならない。

山内:ラオスだったら焼き畑ですね。焼かないと森が迫ってくるという。「動いている森」だ。

本江:だから「動いている庭」に憧れるんでしょうが、ヨーロッパの人は、植物を放っておいたら自然の摂理でとどまってほぼ安定した状態になるだろうとイメージする。ジャングルの人は、そんなうまいこといかない、山のような植物の塊に飲み込まれてしまうよと思う。地域によって植物観の違いがありますね。
 こうした植物観や、植物に対する態度の類型を、テクノロジーにあてはめたら、テクノロジーが人間の手を超えて勝手に成長してしまった時に、どのような態度をとればいいのかが、見えてくるんじゃないかなあと思っていました。
 もしロボットやコンピュータが、ジャングルやアンコールワットの草木のように暴走したら、我々の生活領域や思うところや財産を食い尽くしに来るのか? それとも、ヨーロッパ的な「動いている庭」のように、安定した関係を取り結ぶことができるのか?
 かわいい、やさしい相手であればcorrespondする必要はなくて愛でていればいいが、せめぎあう感じになってくると渡り合わなければいけなくなる。これが圧倒されると、飲み込まれてしまいますね。「パンジー」と「アンコールワット」は両極なのかもしれませんが。

パンジーと7人の小人

山内:パンジー論(*)の文脈でいえば、今の日本の、地理的、気候的条件、とりわけ社会的条件のもとでは、まさに人の営みは植物に飲まれつつあるということなんですよね。クレマンは「第三風景」を多様性の保存所として称揚していますが、日本において第三風景は、もう常なる態なんだと。福島の避難区域や、京都の崇仁地区を見て回ってそう思ったんです。そうした地域で常態化しつつある第三風景をどうしてもポジティブに受け止められないでいた時、人々がパンジーを植えてなけなしの秩序を取り戻そうとする営みが浮き上がってきたんです。 
 それ以前の僕はパンジーを見ても、まったくきれいだと思わなかったし、理解できなかったんです。今、住んでいる町に「〇〇を美しくする会」(〇〇は町名)というのがあって、駅前とかいろいろなところに白いプランターを置いてパンジーを植えている。プランターには汚いステンシルで「〇〇を美しくする会」って書いてあって、しかもインクが垂れていたりして、なんか怖い、みたいな(笑)。
 ところが浪江町に行って、極限的な状況の中で植えられているパンジーに切実なものを感じたときに見方が変わりました。そうすると、普通の町の中で植えられているパンジーも全然違ったものとして見えてきたんです。
 石川さんはパンジーのプランターのような実践にずっと注目されてますね。線路沿いで勝手に菜園をやっている人たちがいるというお話とか、おもしろいなと思っていました。
【註 「パンジー論」:山内朋樹氏の論文「なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか——浪江町における復興の一断面」[3]のこと。山内氏は被災地の浪江町を訪れた際、駅前の花壇やプランター、荒廃した街にパンジーが植えられていることに驚いた。「崩れ落ちそうな空き家、放棄地、植物や廃品が集積する吹きだまり、人の住まいが交互に現れる地域を歩き続けたあとで不意に現れたパンジーは、決して美しくはなかったが、雪崩打つ風景のなかにもたしかな人の暮らしを告げており、都市も自然も同様に萎縮しつつある場所にあって、かろうじて秩序だった風景をつくろうとする切実な意図を示していた」(同論文より)】

石川:ランドスケープやガーデンのデザイナーがすごく腕をふるって美しい庭をつくり、1年後に検査に行ったら、施主が思い切りパンジー的な介入をしていたということがあります。
 そういうのを我々は「七人の小人問題」と呼んでいるんです(笑)。デザイナーがつくってしまったモダンな庭が、ユーザーにとっては「第三風景」的に、砂漠のように見えていたとしたらおもしろい。いや、皮肉な話だと思いましたね。

本江:七人の小人、園芸コーナーに必ずありますね。

山内:あぁ、ありました、ありました、僕にもそういうこと。庭をつくった時に、施主が「きれいにお花が並んでいるのがすごい好きでー」って言っていたんです。いい感じの庭ができたと思ったんですが、次の年に見に行ったら、花壇が再整備されていて、ホームセンターで売っている花が等間隔に並べられてました(笑)。

石川:それも込みで庭のままならなさというか。

人はなぜ、「パンジー」をなぜ置くのか

中西:山内さんの今のお話でおもしろいと思ったのは、福島の被災地は、自然に飲み込まれただけではなくて、テクノロジーにも飲み込まれてしまった「第三風景」であり、住民たちは「飲み込まれていないんだ」という証として、そこにパンジーを置くのだということですね。人間の秩序を取り戻そうとして、ミニマムな秩序であるパンジーを整然と並べる行為をしている。パンジーを置くことは非常に人間的な行為なんだなと思うと、愛でるべき行為なのかなという気もしてきます。
 山内さんにお聞きしたいなと思っていたんですが、それは慈しむべき行為なのか、唾棄すべき行為なのか、どっちなんですかね?

山内:………うーん、何と言っていいのか。庭師として経験を積んでしまった僕自身の美的感覚からすると、今でも「〇〇を美しくする会」のプランターは、おいおいホラーだよって思うんだけれど、しかし浪江や崇仁を見たあとではもはや、パンジーは否定できないという気がしています。
 パンジーを置くことで、人々はその場所を取り戻そうとしていたんです。ある種の原初的な庭仕事とでも呼ぶべき行為ではないでしょうか。

中西:本江さんのテクノロジーが襲いかかるものなのか、植物が襲いかかるものなのか、その認識で態度が変わってくるんだというお話で言うと、パンジーというのは、その「せめぎ合いの境界」にあると思うんです。小学生がバリアを張って「ここからは俺のところやー」と言っているのに近い、安心のためのマーキングみたいなものなんだと。

山内:だからもし荒廃していない普通の都市でプランターが増殖したら、それはある種の症状のようなものとして置かれているんだと思いますね。等間隔にプランターを並べる行為というのは、都市計画や美観とは関係なく、住人たちが自分のテリトリーをつくりあげていくために重要な行為で、それだけに重い意味を持っていると思うんです。

本江:僕の話をすると……宮城県山元町の中浜小学校のデザインのお手伝いをしたんですが、元の住人や先生が年に何回か、震災遺構の壊れた花壇にパンジーを植えに来るんです。「廃墟の美学」からするとラブリーにパンジーが咲いているというのは許せないが、人々の祈りのような営みを無視できないので、いつでも世話しやすいように、フェンスの位置を変更しました。
 津波で流されて何もない荒れ地にも、ほんのちょっとパンジーが残っていて、またこの土地に住めますようにとロープに黄色いハンカチを掲げている人たちがいる。彼らとつきあっているうちに、ほんとうにぎりぎりのところで、「我々の土地なんだ」とハンカチを掲げ、パンジーを植えずにはいられなかった、その気持ちがよくわかってきたんです。山内さんの「パンジー論」よくわかりました、というお話です。

第三風景への抵抗としての亜生態系とパンジーネス

石川:テクノロジーの文脈で、クレマンが言っているような第三風景的な常態とかってあるんですかね? 

中西:ツイッターにボットがいろいろ勝手に書きまくって、荒れてしまうみたいな感じじゃないですかね。

山内:果てはアカウント削除みたいな(笑)。

石川:あれは焼き畑政策なんだ。定期的に手を入れないと。

中西:秩序を取り戻さなくてはいけない。

石川:「第三風景」って、都市がドミナントである時に、必要なものとして浮上するわけですけど、「第三風景」への抵抗として現れる「パンジーネス」(*)みたいなものは、なんと呼べばいいんですかね?
【註 この瞬間に石川からアドリブで出た造語。パンジーのように人々が自分の手で秩序を作り出そうとして置こうとするものに現れる性質を指して。】

山内:僕は「亜生態系」と言っています。人間が手を入れて、相互に無縁な要素をアサンブラージュ(*)的に寄せ集めた状態をイメージしているんですね。いわゆる生態系は「自然」というある種の全体性や固有性と有機的に結びついていますが、「亜生態系」はその連関が断片化し、部分的には無縁になっているというイメージです。
 もともとこの言葉は、都市のイメージづくりのために全然関係ないところから引っ張ってくる街路樹と、その土地の生態系とのアサンブラージュを表現するのに使いはじめた用語で、事物相互の連関がまだ確立していない生態系未満の生態系を表しているんです。
 一方、クレマンの第三風景は自然保護区と同等に語られ、健全な自然として考えられています。見た目としては雑草が生えて雑然としているかもしれませんが、その根底にはちゃんとした有機的連関があるんです。空き地や放棄地のように意図せず現れた「緑の回廊」(*)のようなものですね。
【註 アサンブラージュ:「寄せ集め」「組み(継ぎ)合わせること」を意味する仏語】
【註 緑の回廊:生物多様性を確保するために分断された森をつないだ植物群や水域の連なり】

山内:『アーギュメンツ』の論文[3]では言っていないので、今これを言ったら皆さんも驚かれるかもしれないですけど、アマゾン・スフィアズ(*)とか、イギリスのエデン・プロジェクト(*)、シンガポールのチャンギ国際空港のジュエル・チャンギ・エアポート(*)——なんかをパンジーと同じ語彙で捉えようかと思っているんです。
 パンジーとこれらは、美的あるいは政治的にははまったく両極にあるのですが、パンジー的なものもチャンギ的なものも伝統的な庭園とは違って貴族や一部の趣味人のためのものではないですよね。パンジー的なものは人々が実践するもの、チャンギ的なものは観光客のためのものですが、それらは等しく大衆のための庭園で、本質は同じものではないかと思うんです。現代に庭的なものの可能性が残されているとしたら、そこなんじゃないかなと。

【註 アマゾン・スフィアーズ:アマゾン社がシアトルに建設したガラス張りドームの第2本社】
【註 エデン・プロジェクト:イギリスのコーンウォール州にある巨大な複合型環境施設】
【註 ジュエル・チャンギ・エアポート:シンガポールのチャンギ空港内にある「自然」をテーマにしたエンターテインメントと小売の複合施設】
 
中西:スマートシティは、チャンギ国際空港の温室のように、人工環境と自然環境のミックスとしてつくり出されるんだと思うんですよ。「廃墟化されていく都市」と「人工的につくられていく都市」を亜生態系として等価に並べて、人々はそこでどうやって居場所をつくりだしていくのかを考えていく問いは、非常におもしろいですね。
 「スマートシティに人はパンジーを置くのか?」これは、すごく大きな問いだという気がします。

パンジーとチャンギでスマートシティを挟んでみる

石川:スマートシティの構想では、自律して自己生成するものがエコロジー的にいいもの、みたいなイメージがあります。例えばチャンギ国際空港の温室は、そういうふうに見えるように巧妙に亜生態化されている。その時の「パンジーネス」ってどういうものなのか? スマートシティにおける「パンジーネス」はどこにあるのか?

山内:うーん、難しいですが、僕はスマートシティを挟んで、その両極にスマートシティからディスコネクトされたパンジー的なものとスマートシティに過剰適応するチャンギ的なものを置いて、考えようとしているんですね。おそらくは。その上で、これらの両極の本質は同じではないかと考えているんです。
 パンジーの側はスマートシティからディスコネクトされている人々だと言いましたが、貧困であるとか、主義主張の違い、直感的な何かによってスマートシティにコネクトできない、あるいはコネクトしない人は絶対に出てくるはずです。そういったパンジー的人々のあり様は、最初は非合理的な選択をしているように見えるだけだと思うのですが、スマートシティが実装されて社会の感受性が変容すると反社会的な選択としてマークされるようになるでしょう。一方、反対側のスマートシティの利便性を活用して生活しているチャンギ的な人々にとってはコネクトせざるもの食うべからずになり、パンジーを置くなど「公共」に対する敵対的行為に等しいものになる。いや、話がそれました。ともあれ、パンジーとチャンギについては早く本を出したいんですが……。

石川:それ、すごいおもしろいですね。「パンジーとチャンギ」って、そうとうインパクトがあります。

中西:スマートシティが生まれた時、人々はそこに「パンジー」や「七人の小人」と同じ本質を備えた何かを置き始める。それが本質的な行為なのだとすると、逆にスマートシティにそれが置ける余白を残さない限り、人の居場所にならない。
 
本江:山内さんが社会階層の話をしたけれども、チャンギは、ごくごく安い賃金で働く人がいっぱいいるから、あの巨大な温室が維持できる。「パラサイト」(*)の半地下のような蒸し暑い控室でバタバタ扇子を仰いでいる人たちがいての「チャンギ」なんですよ。シンガポールは街全体が「チャンギ」で、周りがマレーのジャングルだから必死で必死で芝生を刈っている。エネルギーの投入をやめると、フワーッとジャングルに飲み込まれてしまう。
 だから、地下にあるんですよ。チャンギ空港の温室をピッカピカにしている人たちが休憩する汚い半地下の部屋があって、そこに「パンジー」を置いているんだと。
【註 パラサイト:ポン・ジュノ監督の映画「パラサイト 半地下の家族」のこと】

石川:なるほど、つまり周囲の環境や生態系や文脈と切り離されて独立しているところが、まさに「パンジーネス」。

本江:「パンジー」の本質ですね。

中西:探検に行ったほうがいいんじゃないですか、「チャンギにパンジーを見つけにいこう!」と。

石川:絶対に計画していないところに出てくるんですよね。我々がチャンギ空港に行って、あの隅々まできれいにされている植物園にこっそり、鉢植えのマリーゴールドのように景観的にインパクトのあるものを置いてきたら、テロですよね(笑)。「戦略的パンジーネス」です。

山内:石川さんが、パンジーの話を「パンジーネス」へとどんどん展開してくださるので、とてもうれしい。

石川:本、早く読みたいです。

中西:「動いている庭」との何か違う軸がまた出てくるわけですね、その「パンジーネス」には。
 半ば、ディスコネクトされたプランターで持ち込まれる自然と、自然と応答しなければ生きていけない人間というのが、その人間の営みの両面を表しているんだなと、何かそんな気がして。入れ子になって生きている「人工の自然」と「自然の人工」とどうつきあっていくのか? ほんとに大きな問いかけをしているお話だなと思います。

「チャンギ」は大きな「パンジー」だ

石川:自律しているというのがおもしろいなと思いました。置かれるパンジーって、植物と土壌とそれを支える構造があって、環境として一つの単位になっていますね。ゆえに、どこにでも出現できる。

中西:ということは、「チャンギはでかいパンジーだ」ということですね。でも、やっぱり、その外側に誰かがいないとだめだ、ということですか?

山内:長期的に維持しようと思うとそうなりますね。あれは巨大なプランターなんです。

本江:シンガポール自体が巨大なプランター…。

石川:そう見れば、空港の近くにあの温室を置いた行為自体がとても素朴な行為に思えます。

中西:でもそれは、人間の本質なのかもしれません。

本江:みんなが来てくれるところだから「チャンギを美しくする会」が温室をドスンと置いて。きれいじゃないですか。

山内:巨大資本による「パンジーネス」。

本江:そうそう。国家権力によるパンジーの設置が行われているともいえるじゃないですか。そうしないと、街がきれいじゃないと思っているという。「〇〇を美しくする会」と同じメンタリティーが、港のあのでかい温室やチャンギにある。
 【註 シンガポールのマリーナベイエリアにある「ガーデンズ・バイ・ザ・ベイ」の「フラワードーム」。世界最大のガラス張りの温室で、内部の気温を低く保ち、涼しく乾燥した地域の春を再現】

中西:つまり、スマートシティというのは、超巨大なプランターがハイテクになっていて、センサと自動水やり機が太陽電池で動いている、とも考えられるいうことですね。

石川:トヨタの「ウーブン・シティ」(*)、トヨタが考える「富士山麓を美しくする会」が置いたプランターだと考えると、その有様がとても腑に落ちます。
【註 ウーブン・シティ:トヨタ自動車株式会社が静岡県・東富士工場跡地に建設予定のあらゆるモノやサービスがつながる実証都市。2000名程度の住民が暮らすことを想定】

中西:そうしたものをつくるのが人間の“性(さが)”であり、慈しむべきことなんですよね。

本江:世界が失調しているという共感があって、祈りのような気持ちで建設されているんですよ。

中西:そうか……あらゆる再開発は、「パンジー」なんですね。

本江:そういうスケール感ですかね。ディスコネクトされている感じとか、まったくそうだよね。巨大なパンジーって、なんか祈りがあるよね。だから、一概に馬鹿にできないという。

石川:農業と違って、スケールを自在に変えて、たとえ話に応用できるっていうのは、庭ならではの話ですね。

中西:人はなぜ都市をつくろうとするのか、なぜ再開発を無限にくり返そうとするのか。これだけテクノロジーと自然が失調しているのに、なぜスマートシティをつくり、5Gで世の中が幸せになると思うのか。それは「パンジー」を置くのと本質は同じなんでしょうね……。
 いかにより良く「パンジー」を愛でるのか、そういう態度をうまく編み出すというのが、これからの一つのテーマかもしれないですね。
 そろそろお約束の時間に近づきましたので。今日は、ほんとうにおもしろかった。最後に、スマートシティもパンジーだったという、びっくりするほど、いい視点をいただいたと思います。どうもありがとうございました。

山内:いや、僕もみなさんが予想外にパンジーを面白がってくれてうれしかったです。ありがとうございました。

一同:ありがとうございました。

【2021年1月12日 Zoomによるインタビューにて】
(テキスト・編集=清水修 Academic Groove

[1] ジル・クレマン, 動いている庭, みすず書房 (2015/02).
[2] ティム・インゴルド, メイキング-人類学・考古学・芸術・建築-, 左右社 (2017/09).
[3] 山内朋樹, なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのかー浪江町における復興の一断面, アーギュメンツ#3 (2018/06).

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