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#3:公認会計士試験にチャレンジした話(動機編)

人生で挑戦してよかったこと。こんなテーマの投稿企画が目に入る。

僕にとって挑戦してよかったこと。それは「新卒で入社した会社を辞めて公認会計士試験に挑戦したこと」。

なんでよかったか。率直に言うと、自分で手を動かして積み上げる大切さを再確認できたから。だから、別に公認会計士試験でなくてもよかったかもしれない。天狗になった自分の鼻をへし折り、しっかり自分で手を動かして、自分で考えて、自分で積み上げていく大切さを(いい歳して)学んだ、それがよかったと思う。


僕は天狗だったのか

これは間違いなくYesと言える。

僕は高校までを田舎で過ごし、1年間の御茶ノ水での浪人生活を経て東京大学に入学した。世間知らずな僕は有頂天。東京の浪人生活のおかげで成績は全国でもトップクラス、「あぁ、自分は賢いんだ」と全力で思っていた。そして東京大学にも合格し、「自分は賢いんだ」が確信に変わっていた。

身内にもトップクラスの大学に進学したものはおらず、父や母も相当周囲の人に自慢したようだった。色んな方から「どれだけ父や母が喜んでいるか」を耳にすることになった。

大学に入り友人も増え始めると、コミュニケーション能力(というより、「相手の言ってほしそうな言葉を選び取る能力」)のおかげで頭が良さそうに振舞える。なんとなく選択した第二外国語のロシア語のおかげで「変人」感も増し、「あいつ、なんかおもしろいぞ」と言われる。賢い友人たちが「この人おもしろい」と色んな方を紹介してくれるから、もはや自己紹介しないでも「おもしろい人だ」と言ってもらえる。「おもしろい」評価が、おもしろうように連鎖していった。

友人も多くなく暗い時間を過ごした高校までから世界が一変してしまった。素直さや賢明さという意味でちゃんと賢い同級生たちにチヤホヤされて、まさに絶頂。ある意味で人生で一番幸せな瞬間だった。

転落(してるけど気づいていない)

僕は本来の意味で頭が良かったのではない。おもしろいと言われたのも様々な物事や事象に対して斜に構えていて斜に構えるコメントができていたから。空気を読んでおもしろいと思ってもらえる逆張りな一言を発することで自分の立場を作っていたし、そういう才能があった。

勉強しなくても斜に構えたコメントぐらいは誰にでもできる。逆張りしてしまえばいいから。そうすると優しくて素直な同級生たちはおもしろいねと褒めてくれる。「頭がいい」は振る舞いで作ることができる。僕はだんだんと勉強しなくなってしまった。

気づけば定期考査でも成績が取れなくなり、目前に迫った就職活動でも企業研究や業界研究、自己分析など、何もかもをバカにして真面目に取り組まなかった。こうして第一志望のゼミにも落ち、就職活動もうまくいかなかった。

今になって思えば「こいつは逆張りばかりしていて中身がない」ということが見え見えだったのだろうと思う。斜に構えた奇抜で風変りな自分を演出することに必死で、本当はまっすぐ向き合わないといけない自分の将来や、中身がすっからかんになってしまった自分自身から逃げていた。目の前のものにまっすぐ向き合わないことで、自分をどんどんおざなりにしてしまっていた。

公認会計士試験への挑戦

新卒で入社した会社でも、僕はとりわけ扱いづらい人間だったのではないか。当たり前のように上司に噛みつき、不平不満を口にした。大した業界研究もしなかった会社で、何も分かってないくせに、知ったような顔で色んな意見を口にした。

2年ぐらいが経って「日本の会社ではやっていけない」と思い始める。ここまで読んでくれた方なら分かると思うが、もちろん悪いのは会社ではない。斜に構えた中身のない僕が、自分のうまくいかなさを人のせいにして捻りだした結論だった。

仕事で組織再編に触れたことがあった。仕事で会社法に触れたことがあった。仕事で何々をした。色んなそれらしい理由を並べて公認会計士試験に挑戦することになった。正直あまり興味がなかった。でも、このうまくいかない感じを何かで打破したかった。本当は素直に自分自身の現状に向き合うことが一番の解決策だったはずが、自分の外側に原因を求めていた。

こうして挑戦が始まった。東大受験を突破した僕なら順風満帆!とおそらく周りも思っていたし、自分でも考えていた。伝統論、リース会計、金融商品会計、と簿記の勉強を進めていき、予備校で実施される答練(小テストのようなもの)を受ける中で気付く。

「僕は周りから相当なレベルで後れを取っている」

なぜ。周囲と同じタイミングで予備校の授業を受け始め、同じように勉強しているはずなのに。これを考えることすらももはや思い上がりと言えるぐらい、僕は愚直に自分の手を動かすことや細かい努力を積み重ねることから遠ざかってしまっていた。

「大学生活での思い上がりを経て、自分はもう転落しているんだ」

そう思えるまであまり時間はかからなかった。暗記をするためには手を動かし、理解するためにはスマホを置いて書籍に向き合い、問題を解くためには一人で静かに取り組まなければならない。そんな当たり前すぎる当たり前が、ようやく当たり前として自分に浸透した瞬間だった。

挑戦してよかった

そこからはそれほど時間がかからなかった。スマホは家に置いて出かけるようになり、日々、自習室に朝から夜までこもって手を動かした。自分で手を動かすこと、細かい作業の徹底の先に大きな結果があること(一つ一つの会計仕訳が最終的に財務諸表となることと同じ)、そういう具体や事実の積み重ねの先に自分ができあがっていくこと。色んな当たり前を取り戻していく期間となった。

今でも行き詰まることがあるとここを振り返っている。ちゃんと自分で手を動かせているか?自分で事実を積み上げているか?変な逆張りで逃げようとしていないか?

この挑戦は、人生においてとても基本的でとても大切な指針を、再確認させてくれた。挑戦してよかった。



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