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この人と一緒に、働きたいと思った。

2012年3月、ぼくは米国シアトルにいた。数週間後の帰国を控え、留学先の大学の期末試験を片手に、もう一方の手には新卒向けのエントリーシートを抱えていた。現地で会ったかけがえのない友人たちと過ごす時間だけは守りたいと必死になって。

無謀なスケジュールで組んだ8か月間の留学は、新卒採用の面接が一斉に始まる4月を目前に終わりを迎えることになっていた。

日本から持ってきたガラケーに連日かかってくる非通知着信。時差が時差なだけに取り逃したものは少なくなかった。就活仲間もろくにいない異国の地へ届く「サイレント」「お祈り」といった就活スラングは、笑い話に昇華することもなくただ静かに胸へと突き刺さり続けていった。



ある日の深夜3時、枕元に着信音が鳴り響いた。
日本の某金融機関の採用担当者からだった。書類選考を通過したので、1次面接に来てほしいとのこと。飛び起きたはいいが寝起きで普段以上に回っていない頭のまま、とりあえず日時を承諾した。

4月1日の朝一。最初の面接になるだろう。そう思って深夜に開いた手帳のマンスリーページは、目を逸らしたくなるほど真っ白だった。


第一志望の業界は、商社だった。

大した夢はなかった。英語を使ってみたいとか給料が良さそうだとか漠然とした響きだけを頼りに思考停止している、ろくでもない学生だった。英語を話せるようになりたいのは本心だったが、それも単なる劣等感の裏返しでしかなく、羅針盤は一つとて持ち合わせていなかった。

飛び込むような勢いで始めた留学に続き、就職活動も必然のように行き当たりばったりを繰り返した。

留学中に米国で開催された日本企業の採用イベントへ足を運んだりもしたが、ことごとく門前払いを受けた。「今のあなたの学年だとこの場での採用対象外」「帰国後に受け直して」という言葉を信じ再挑戦した企業からは、米国で既に不採用の結果が出ていると告げられ、社会の不条理を知った。


帰国後は、限られた時間を使って実際に働いている人の話を聞きに回った。いわゆるOB訪問だ。

だが、商社マンの話を聞けば聞くほど、社会は遠のいていった。商社の話は留学先の8カ月間に出会った駐在者から何度も聞いていたが、日本で真摯に就活に勤しんでいた同期に比べて、企業研究が圧倒的に不足していた。

描くのに1年近くかかろうが1週間で瓦解するような未来に、夢を名乗る資格はない。自分はどんな働き方をしたいのか。本当は何をしたいのか。留学をした理由すら曖昧になり、地下鉄のホームで立ち尽くして動悸を感じることもあった。


唯一、商社以外でOB訪問をした会社があった。
4月初日に面接を控えているあの会社だった。大学のキャリアセンターでそこの卒業生名簿を開き、気づいたときには、まだ慣れないスマホの発信ボタンを押していた。

年度末の忙しい時期に会って話を聞きたいだなんて、普通はご法度だ。留学していたという事情を差し引いても、迷惑であることに変わりはない。

だが、電話口の向こうに聞こえた声はとても穏やかだった。快く引き受けてくださった日時に普段より早く到着し、丁寧に畳んだコート片手にその人が現れるのを待った。一次面接の2日前のことだった。

その人は、今携わっているプロジェクトの話や、仕事のやりがいについてわかりやすく話してくれた。物腰やわらかい話し方だったが、ひと言ひと言に滲み出る熱量がテーブル越しに伝わってきた。まるで二人で同じキャンバスを向いて言葉を交わしてくれているかのようなその姿は、これまで出会った誰よりも真摯で、誠実だった。




この人と一緒に、働きたいと思った。

留学中に出会った人の中にもカッコいいビジネスマンはたくさんいたし、生涯大切にしたい信念を授けてくれる大先輩もいた。

ただ、この人と一緒に働きたいと思ったことは一度もなかった。それまで会った人と一緒に働きたいとは思えなかったというわけではなく、その視点自体が新鮮だった。普通の就活生なら当たり前だったのかもしれないが、そのときの自分にとっては、初めて手にする救いの羅針盤だった。

その後、幸いにもある商社から内定を得ることができた。

採用責任者と握手するときの表情は作り笑顔だったが、あの人の会社は一次面接を最後に10日以上連絡が途絶えていたこともあり、留学前から続く就活にここで終止符を打とうと思った。リーマンショックの傷跡深い就職氷河期に、こんな無茶苦茶な就活生が働ける場所をもらえただけ幸せだと思った。


ところが、非通知はまた鳴ったのだった。

間に合うよう帰国して参加した姉の結婚式の最中のこと。会場の外に飛び出して取った電話は、二次面接に来てほしいというあの会社からの連絡だった。今まで味わったことのない緊張感に、鼓動の高まりを感じた。

縋るような想いで臨んだ面接の感触はというと、いまいちだった。今までやり切ったと言える面接があったのかと問われると答えに窮するが、少なくとも帰り道の足取りは軽くなかった。

夕方、駅のホームを抜ける風に冬の余韻を覚えたとき、眺めていたスマホの画面が暗くなった。
非通知ではない、見覚えのない番号からの着信だった。いつもの癖で反射的に通話ボタンを押すと、電話口の向こうに聞こえたのは、あの穏やかな声だった。



「その後どうしたかなと思って。就活、順調?」

商社から内定を得ていることは、この日の面接でも伝えていた。人事担当者の頼みを受け掛けてきた探りの電話だったとは思えないが、一度会っただけの学生に励ましの電話をくれるはずがないと疑えるほどの場数も踏んではいなかった。真意が何であれ、自分はこのときのやり取りに救われた。


あの人の言葉は間違いなく、背中を押してくれる声をしていた。





ぼくはこの4月に、社会人10年目を迎える。いつかあの人と一緒に働ける日が来ることを願いながら、同じ会社で。

何をしているかもよくわかっていなかった会社で、運のいいことに入社以来ずっと楽しく仕事ができている。いわゆる金融の仕事でありながら、言葉に真剣に向き合うことが誰かの力になり、誰かが力を得てくれることが自分の力に変わる毎日を過ごせている。

現場第一線の部署にいたときは数えきれないほどお客さんに怒鳴られたし、難しい案件のプレッシャーに負けて耳が聞こえなくなったりするなど、人並みにつらい経験をした。今だってミスは絶えないし、自分ひとりじゃ何もすることができない。上司にも後輩にも助けてもらってばかりで、よくもまあ10年もここで生きてこられたなと思う。



ひとえに、一緒に働きたいと思える仲間がいるからだった。

月並みな台詞だが、10年前あの人に会って感じた想いは一度たりとも揺らいだことはない。部署も変わって働く仲間も変わったが、その想いだけは変わらず、むしろ仲間が変わるたび確かになっている。ともに向き合ってくれたキャンバスに描いた絵は少しも色褪せることなく、立ち止まって見返すたび鮮やかになり初心を思い出させてくれる。

会社で年次を重ねるうち、採用活動の一環で学生と話をする機会にも恵まれた。

新卒採用はいつしか買い手市場から売り手市場へと変わり、働くことの価値観もここ数年で大きく変わった。10年前の自分に響いた言葉が彼らに届くことはないだろうと思いつつも、学生を前にしたとき、ぼくは必ずあの人と出会った日のことを話す。業務内容もろくに調べず、自分が組織にどう貢献できるかを考えもしなかった就活生と同じにされては気の毒だとわかっていても、10年間疑わなかった想いが、次は誰かの羅針盤になることだってあるかもしれない。





ぼくは、自分の仕事に誇りを持って働いている。
でも、一緒に働く仲間にはもっと誇りを持っている。

今の部署もだいぶ長くなってきたが、できないことばかりで嫌になる。何ともカッコ悪いことに、助けてもらわないと仕事ができない自信がある。

躓きそうになったときには支えてくれる仲間がほしいし、前に踏み出す勇気がないときには背中を押してくれる仲間がほしい。自分にできることなんて限られているけれど、ぼくはそれ以上に誰かを助け、支え、背中を押してあげられるようになりたいと思っている。

10年も同じ会社にいると、自分の仕事が誰の役に立っているのかわからなくなることもある。現場第一線ではない部署に身を置いてしばらく、その疑問の晴れない日が続き、どこを向けばいいかわからなくなる日だってある。

それでも自分がここに居続けたいと思う理由が一つあるとすれば、一緒に働く仲間の力になりたいからと答えるだろう。

今後も、自分の存在価値を疑うことは絶えないと思う。
だから今日も仕事をしている。誰かの一緒に働きたい仲間でいられるように汗を流している。それが、唯一の存在の証明になると信じて。



会社に入ってから一度だけ、あの人と言葉を交わしたことがある。

たまたま受け付けた照会メール。その差出人の名前を見た瞬間、あの日の夕方に駅のホームで鳴った着信音が、時を超えて胸に木霊した。あの人は今、ぼくのいる場所から遠く離れたところで仕事をしているようだった。

入社前に一度御礼の挨拶をしたきりで、その後は慌ただしい毎日に忙殺され声を掛ける機会を逸していた。10年近くも前の話で、それまでに会った学生はきっと何人もいる。
自分のことなんて覚えていないかもしれないと不安になりながらも、照会メールへの返信をした後、もう1通、メールを送った。鶴の恩返しさながら、あのとき助けてもらった鶴ですと言わんばかりに。


翌日、返信が届いた。
穏やかな声を思い出す、やさしくて力強い文章だった。

返信ありがとう。

メールを読んだとき、「このようなメールを送ってくれる後輩が当社に入ってくれて本当に良かった」と思いました。そんな後輩が充実した会社生活を送ってくれていて何よりです。

いつかまた会える日が来ると思いますが、その時はお互いがその時の自分に自信を持って会えるように頑張りましょう。



今日もぼくは必死に仕事をしている。羅針盤の針が振れないように。
人生の航海図はないが、羅針盤はあるのだ。



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