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「わかりやすさ」と論理

わかりやすい文章についてばかり考えている。

ビジネスでは、わかりやすくない言葉は門前払いを受ける。いつ、誰が、どんな状況で読んでも届く文章が正義。お客様向け文書、社内稟議書・報告書、メール1通、チャットのひと言。キーを打つ指が躊躇いを覚えるのは、大抵わかりやすさが足りていないと感じたときだ。

その反動か、noteではわかりづらい文章を書きたくなる。正確には、わかりづらくてもゆるされる文章を、むしろ多少わかりづらい方が滋味深くなるかもしれないなどと勘違いしながら、「わかりやすさ」のスイッチをオフにした状態で書いている。実際のところシャットダウンはできずecoモード(何だそれは)が関の山なのだが、とりとめもなく、冗長に言葉を綴ってもゆるされるのが心地よい。

わかりづらいとは、「わかる」というゴールまでの道のりが複雑だったり、障害物があることに喩えられると思っている。歩けば往々にして曲がり角に差し掛かり、ややもすれば何かにぶつかってしまうのが世の常だ。たとえ時間はかかろうとも迷うことなく、ぶつからずゴールへたどり着けるなら、その道はきっと美しい。

そこには、論理という名の一筋の水脈が走っている。


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noteを始めて以来、情緒ゆたかな文章にたくさん触れてきた。美しさを感じ、憧れを抱いた。自分も書きたいと思った。憧れはまだずっと遠くにあるままだが、3年前の自分が読んだら驚くような文章も書いた。繊細な情景描写だけが伝えられる思考や感情があると知った。

それでも、論理的な文章には美しさを感じてやまない。

やれ無機質だの殺風景だの揶揄されがちだが、いつ、誰が、どんな状況で読んでも間違いなく届く文章は、洗練されている。技術がなければできない職人芸を彷彿とさせる。「芸術」を意味するアート(art)の原義が「技術」であると初めて聞いたとき、その事実にすら美しさを覚えた。

"art" の派生語である "artistic"が「芸術的」であるのに対し、 "artificial"が「人工的」ないし「偽りの、不自然な」の意を持つのは興味深い。手の込んだ技巧を凝らすより"natural" な存在にこそ美があるとの示唆にも見え、民藝運動を率いた柳宗悦の思想にも通ずるものが窺える。こうなると、人工知能(AI:Artificial Intelligence)は果たして世界を美しくするのか、なんて余談にも考えを巡らしたくなってしまう。

論理的な文章は、相手が基礎的な言語能力さえ有していれば伝わる。必ず伝わる。相手は受け入れる以外の選択肢を持たない。受け入れないとすれば、それは単に読んでいないか、感情的に拒絶しているかのどちらかだ。

論理という名の水脈は、明快な道筋を持つ。途中、曲がったりアップダウンを経たりしながらも、流れる水は淀みなく終点に向かう。潔く、なめらかに。技巧を凝らした痕跡など見つけられないほど自然に。

論理と感情。後者への追い風が吹いて久しいが、感情だけで事済むなら苦労はしない。感情とは温度。熱い水と冷たい水がすぐには混ざらないように、感情は交錯する。そこに、淀みは生まれる。

時代は共感を求めている。共感が感情のシェアなのだとしたら、自分と水温の近い人を探してでもいるのだろうか。火傷せず、かといって凍えることもなく、心地よい温度の相手に出会えたなら幸運だが、よほど運命の相手じゃないかぎり温度調節が一切不要とはならないのだろう。

社会は淀んでいる。様々な感情が、感性がもつれ合って均衡を保っている。温度を上げるのも下げるのもエネルギーを使うし、温度調節を誤れば、かえって淀みを生んでしまったりする。滾るような熱い水がそばにあるだけで、空間は淀む。良くも悪くも、熱は伝導する。

論理は淀まない。だから論理は、今もなお社会で幅を利かせている。温度にかかわらず、いつ、誰に対しても淀みなく届くから便利なのだ。間違いなく届けるために論理を使う。論理には、温度がない。

論理は敬語と似ている。丁寧語と言った方が適切かもしれない。

極端な尊敬と謙譲を除き、敬語には温度がない。親しくなるほど上昇するバロメータがあるとしたら、敬語は0度だ。初対面の人であれば敬語を使う。温度を感じさせないため、淀みを避けるために。

まあ、親しくなってから敢えて使う敬語が氷点下かと思うと、それはそれで面白いけれども。慇懃無礼、みたいな。


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論理的な文章は、伝わる。感情が不在の文章。一見すると伝わらなさそうだが、余分を削ぎ落したそれは一切の空気抵抗を受けず、軽やかに、ただ伝わるという目的を果たす。無駄のない数式や余白を重んじる俳諧や和歌にも似た、引き算の美学がそこでは体現されている。

伝わることがすべてではない、研ぎ澄まされた分だけ鋭くなった文章は、放り投げられれば勢いよく飛びかかり、誰かを傷つけることもある。鍛錬された日本刀がどれだけ美しくとも刃であるように、慎重に選び抜いた言葉もまた刃だったりするのだ。

だからか、淀みにも憧れてしまう。ゆるりと広がった波紋と波紋は重なり、淀みを生む。停滞する。漂い始めたさざ波はどこにも伝わらないが、揺れ動くその様はただ美しい。

伝わる美へのこだわりが、淀みの美しさを教えてくれる。両極の振れ幅は大きく、揺さぶりは止まない。一向に立ち位置の定まらないこの文章はどこかの誰に届くのか、無為に漂い続けるのか。例によってわからないが、その状態すら美しいと思えるようになりたい。



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