見出し画像

ほとんどの人は、見るだけで、観察していない。

観察力は、効率的な情報処理とトレードオフの関係にある。後者が強調されがちな今の時代にあって、この言葉は場面を問わず自省を促してくれる。

出典は以下の書籍。最近「アートは教養だ」系の本がビジネス書のそばに並んでいるけど、この本の説くところはもっと直接的に仕事に資する。

正確な判断をするためには、事実を詳細に把握することが何よりも大切になる。こないだ書いた以下の記事の最後で取り上げたテーマだ。

法律学の世界でいえば、どれだけ説得力のある規範(判断基準)を定立したとしても、事実認定が微妙に異なるために結論の異なる判決はいくらでもある。事実関係のどの部分が変われば、その規範は及ばなくなるのか。境界線はどこかにあるのか。「判例の射程」を見極めるという法律学の重要な姿勢だが、日常生活にもかなりの応用が利くものだと思っている。なぜか。

事実は、いつだって細部に宿っているからだ。

以前、下の記事でも書いたが、情報の溢れかえった現代社会に生きるぼくらは、選ぶことに疲れている。だから大雑把な分け方(判断基準)に魅力を感じる。しかし、持ち前の定規の目盛りは本当に適切だろうか。もっと目盛りの細かい定規を使うことで見えてくる特殊な事情はないか。抽象論に終始しないためにも、定規の目盛りは絶えず意識しないといけない。

知覚を研ぎ澄ます

冒頭で紹介した本は、「バイアスにとらわれない洞察力、重要な情報を引き出す質問力、確実に理解してもらえる伝達力、失敗しない判断力」を身に付けるために、アートを分析する力が応用できると説く。現実世界は絶えず目の前をすごい速度で流れていて、答えが何だったかを追えないことがある。

この点、アートは消えない。作者が、自らの価値観で総動員した情報が凝縮されていて、そこには一応の答えがある。観察するには最高の材料になる。

アートとは、”途方もない量の経験と情報の蓄積”なのだ。私たちの観察力、分析力、コミュニケーション力を鍛えるのに必要なすべてを備えている。(P.29)

連日コロナのニュースを見ていると、観察力の必要性をひしひしと感じる。扇動的な報道をするメディアはさておき、安直な判断でその論調を拡大させることが不用意に人を傷つけかねないという意識は、世間から姿を消しつつあるようにすら見える。

あの人たちには大事なことがわかっていない。自前の立派なレンズを使わず、あらゆるものを液晶ディスプレイという二次的レンズで蒸留して。あれではみずからの感覚や知覚、そして感情を放棄しているも同然だ。(P.38)

動き回ることはできないから、情報は手元のデバイスから得るしかない。この異常事態に限った話ではないが、そこにある情報は上澄みだ。

直接の知覚で得られる情報の方が少ない今の時世にあって、そうした情報処理の方法の有用性を否定することは誰にもできない。だけど、情報伝達のラストワンマイルは必ず自分の知覚だ。蒸留されてきた情報は、「見る」のではなく「観察する」ものだと心得なければいけない。

観察とは、頭を使って積極的に情報を収集すること

この記事のタイトルにも引用した「ほとんどの人は、見るだけで、観察していない。」の前後の文脈では、観察結果を歪める可能性のある要素を自覚することの重要性が説明されている。端的に言えば「自身のバイアスを意識せよ」ということで、これは多くの言説が触れている点でもある。

そんな中で、次の一節は目を引いた。

人間は刺激の砲撃にさらされている。外からは、ものが見えたり、音が聞こえたりといった感覚的刺激を受け、内には思考、感情、記憶という刺激が絶えず生じている。それらをすべて処理することができないので、脳は一部に注目して、ほかを犠牲にする。脳のニューロンが、情報を選択的に処理することをアテンション(注意)という。「気づくという行為は魔法でもなんでもなく、脳が情報を処理した結果です。」(P.50)

視界に入っているけど見えない。心理学用語では、これを「非注意性盲目」と呼ぶらしい。対象を認識するためには注意を向ける必要があり、人が注意を向ける先は選択的であるという。細部を認識するために、自分が習慣的に無視している領域を意識する。多分、その領域は思っている以上に広い。

「自身のバイアスを意識せよ」というくだりは、物事は多角的に考察せよという意味合いで語られることが多い。得た情報を「どう見るか」という視座のニュアンスが強く、前段階の「何を見るか」は疎かにされがちだ。非注意性盲目は、これを「何を見ないか」という裏側の視点から自省を促してくれる点で、一層に示唆的だと思う。

新しい技術を習得すると、脳内の神経連絡が再編される。観る訓練を積むと、生物学的レベルで、よく見えるように脳の配線が変わるのだ。(P.55)

選択的に注意を向ける先を変えるには、訓練が必要になる。訓練をすると、今まで見えていなかった(見ていなかった)ものが見えるようになる。新しいものが見えれば、見つけるものも変わる。観察力とは発見力であり、発見力は、発想力を育む。

・・・スティーブ・ジョブズも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、発明に欠かせないのは、新しいものを創り出す力そのものよりも、発見する力だと考えていた。何かを発見したいなら、目を開き、頭を使い、感覚を研ぎ澄まして、注意を払うことだ。(P.42)

仕事・プライベートを問わずとかく効率的な情報処理が求められる傍ら、アウトプットの偏重がもてはやされる世の中には、疑問を覚えることも少なくない。玉石混交といえばそれまでだが、発信するからには質を高めたいというのが誰しもの本音だと思う。

だったらまずは見ること。観察すること。インプットの質にこだわること。質を見極めるためにも、まずは多くの情報を観察することが必要になる。量をこなさないと、「玉っぽい石」と「石っぽい玉」の違いはわからない。

私たちには、見ようとする世界しか見えない。(P.17)

見よう。丁寧に。世界の解像度は、もっと高いはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?