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「わからない」の救い

「わかる」に囲まれている。わかりたいと渇望し、わからなければと生き急ぐ。「わかる」はつるつるしていて抵抗がない。だから空回りする。

ビジネスで「わからない」は決まって悪者である。

相手の質問に「わかりません」と答えるのは、交渉決裂や信頼失墜への一歩になる。わからなくても「現時点ではわかりかねます」「確認します」と返事をする。「わからない」をそのままにしておくことは許されていない。あらゆるリソースを割き、限られた時間で辿り着ける「わかる」が、ナビゲーションの目的地に常にセットされている。それが本当の「わかる」かどうか、わからないときでさえも。

「わからない」に囲まれすぎて、また「わかる」ばかりを追い求めていた。言葉という掌ですくい上げてきた思考と感情はどれも鋭利な輪郭を帯び、ひと雫もこぼすまいと目を光らせていた。森の中の湖面に細波さざなみは立つけれど、無機質な水槽を満たす水は、淀むことを知らない。

「わかる」とは、反駁の余地がないことでもある。わかったのであれば、異なる意見を返すことも、質問をすることも期待されていない。だからビジネスの場では、蟻の一穴も許すまいと言葉を繕い、相手の「わかった」を引き出そうとする。反証と批判を重ねる点ではアカデミックのそれと同じであるが、有限な資源から絞り出された言葉は、磨かれたように見えて、実はとても脆かったりする。

「わからない」の忌避が渇望させた「わかる」は、少しずつ幅を利かせて、日常を蝕む。断片的な言葉、感情を煽る画像、インスタントな動画の消費。溢れかえった「わからない」に疲れたからなのか、「わかる」を追い求めすぎて「わからない」に耐えられなくなっているのか、わからない。思考が停止するのは「わからない」に直面するからではなく、「わかる」に絶え間なく晒されているからだ。それだけは多分、今、どうにかわかっている。

「わかる」ための言葉を連ねてばかりで、「わからない」から遠ざかっていた。わからないことまでわかるかのように装っていたのかもしれなかった。正解のない議論、あるいは他人の感情。わからないに目を瞑り、わかりたいと憔悴し、わかるに埋もれ、息苦しいともがいていた。

「わからない」は不揃いだ。掴みどころがなくて、ごつごつ、ざらざらしている。研がれ、整えられ、隙間なく積まれていく「わかる」と違い、そこにはたしかな揺らぎがある。滲むし、掠れるし、欠けてしまうかもしれないのに、でも、だから、そのままでいいよと語りかけてくれるやさしさがある。

わからないからこそ、考えが、想いが、そして言葉が、生まれてくる。そう教えてくれた人に出会ったのも、そんな言葉を紡ぎたいと思ったのも、noteだった。わからないを紡ぐ言葉たちは、耕されていく畑のような豊かさに満ちている。

目的地に辿り着かなくても、不揃いでずれていてもいい。わからないをわからないままにしておく言葉があるといい。ゆるすは、ゆるむと似ている。あなたは、あなたのままでいい。




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