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私の、同性に対する厳しい目線


先日ブルックリンの友人宅で食事をしたあと、遅い時間になってしまったので電車に乗るのはおっかないな、とLyftを配車したところ、すぐにHONDAのclarityがドコドコとやってきてくれた。

ドアを開けると、強めの香りがマスクを通り越してドッと鼻孔に突き刺さってくる。カーステレオからは大音量のビートミュージックが鳴り響き、車内ミラーからはピンクのドリームキャッチャーが吊り下げられ、ぶわんぶわんと揺れている。ハンドルを握る手もピンクの爪。運転手はギャルだった。

なぜか知らんがギャルの運転手は非常にダルそうで、それだけならば良いのだけれど、運転中にスマホをいじったり、何かよくわからないパッケージをゴソゴソと開けているもんだから、地下鉄とは別の意味で身の危険を感じてくる。シートベルトをしっかり締めつつ、30分強の爆音ドライブをじっと過ごした。

幸い無事に、そして最速で家まで送り届けてもらえたのだけれど、終始ダルそうにしている彼女に対する不信感は募っていた。家に戻るエレベーターの中で「これは低評価……」とアプリの評価画面をタップしかけた。でもちょっと待てよ、と。


ニューヨークで出くわす運転手は、だいたいこんなものなのだ。

電話しながら、スマホを見ながらの運転も日常茶飯事。車内が異国の強い香りで満たされていることもあるし、耳馴染みのない宗教的な音楽が爆音で流れていることもある。稀に丁寧な運転手に当たる幸運な日もあるが、まぁおしなべて不運な日ばかりが続く。でもそれにすっかり慣れてしまったので、レビューの星を1つにしてやろうとか、もはやそんなことはあまり考えなくなっていた。人の適応能力はなかなか大したもんである。


でも彼女のレビューは低くしようとした。なぜって、

彼女が若い女性だから。「女性は丁寧な仕事をするだろう」みたいな自分の中にある勝手な期待値との高低差が、低評価レビューの動機になっていた。

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私は女で、それ故に嫌な思いをしたことはある(男性だって、男性故に嫌な思いをしていることは山ほどあるだろうけれど)。 だからといって、「自分は女性なので、女性差別には加担しておらず、差別を受ける側に限定される」ということはないのだ。私も加担している側なのだ。

むしろ同性だからこそ、「私だったらこうするのに!」と、勝手に自分を比較対象として評価してしまうことがある。男性の荒さは異文化として受け入れられるのに、女性の荒さには不満を抱く。結果が同じであったとしても、期待値が違えば印象は変わる。そうして、他の同性に向けた厳しい評価の目は、ぐるりと空中で180°曲がって、自分のところまで戻ってくるものだ。



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よく、こういう話がある。

同棲カップルで「気づいたほうが家事をしよう」というルールにしていると、気づく感度や、耐えられる衛生環境があまりにも違うので、どちらか片方に負担が偏ってしまう……という話。

でもそのことに関して、負担が重い側が「相手がちっとも家事をしてくれない!」と訴えたとしても、もう片方は「いや、でもそんなに高いレベルのことを求めていないし……」と噛み合わなかったりするという。


相手から求められている訳でもないのに、自分で自分にどんどん高い理想を課してしまい、結果として自分の時間を全て誰かに捧げてしまう……という人は、きっと少なくない。

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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。