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白井崇陽さん(映画『こころの通訳者たち』出演者インタビュー Vol.6)

「"舞台手話通訳"に"音声ガイド"をつける」という前代未聞の挑戦を追った映画『こころの通訳者たち』。そこには多様なバックグラウンドをもつ、魅力あふれる人たちが、知恵と想いを寄せ合い参加していました。

映画だけでは伝えきれない、出演者の方々お一人お一人のライフヒストリーや普段のご活動、今回の音声ガイド作りの感想などを、インタビューでお聴きしました!

今回は最終回!視覚障害者モニターとして参加した白井崇陽(しらい たかあき)さんをご紹介します。

<白井崇陽さんプロフィール>
3歳の時失明して以来、親の勧めでヴァイオリンとともに育った。本業はヴァイオリニストであり、作曲家。パラ競技の世界大会では、三段跳びで入賞の経験もある。

―― 3歳の時に失明とのこと。どんな理由で失明したのでしょうか?「見た」記憶は何か残っていますか?

白井:はしかと肺炎を併発して、41度ぐらいの高熱が2〜3日続いたみたいなんです。なんとか一命はとりとめたけど、粘膜がやられてしまって、一番ダメージが大きかったのが目の角膜。それで見えなくなりました。

保育園に入ったばかりの頃なので、「見える」ことについては何一つ覚えていないですね。基本的には先天的に見えない人と同じ感じだと思います。

―― 見えなくなってからすぐにヴァイオリンも始めたのですか?

白井:そうですね。僕が何か将来的に自信をもてたり、続けられるようなものがあるといいんじゃないかと両親が考えて。二人とも音楽が好きだったので、ピアノかヴァイオリンをと考えていたところ、音楽を教えている人から、「男の子ならヴァイオリンがいいんじゃないか」って言われたらしく(笑)。それでヴァイオリンを習い始めました。

―― 親御さんの薦めで始めたヴァイオリン、好きになれましたか?

白井:小さい時は練習が嫌いでしたね。というのも、当時愛知の田舎に住んでいて、レッスンできる場所がすごく遠方だったんです。通うのだけでも大変で、めんどくさくて…。

でも小学2年生の時に家族全員で東京に出てきてからは、近場で定期的にレッスンに通えるようになりましたし、発表会やコンクールにも出るようになりました。そこで受賞もしたので、がんばってやろうと思えるようになりましたね。

ただそれも、「ヴァイオリンが好きだから」というのとは少し違うと思います。僕、昔から自立したかったんです。4人兄弟の長男なので、早く自立しないと、家に負担をかけると思ったし、たとえば僕がヴァイオリンのレッスンとかで出かける時、親は働いていたので、弟たちが僕についてきてくれたんです。弟たちの時間を犠牲にしてしまうという思いもありました。だから早く一人立ちしたくて、生きていく手段を模索していたんです。

とはいえ、大学生になって、周りの見える友人たちはいろいろバイトをやっている一方で、僕は全然できるバイトがなくて…。そんなとき、レストランで演奏するバイトをやらせてもらえたんです。他にできるバイトが全然なかったからこそ一層、ヴァイオリンで少額ながらもお金をもらえたときに、「これで食べていきたいかも」って思いました。

だから、昔からヴァイオリンが好きだったわけでも、最初からヴァイオリンで生きていくビジョンが見えていたわけでもなくて、20歳ぐらいのときにようやく、ヴァイオリンが仕事につながったという感じです。

大学時代、京都での演奏会でブランデンブルク協奏曲を弾いている演奏風景(2005年)。
ピアノの前でヴァイオリンを弾いているのが白井さん。

―― ちなみにヴァイオリンは、見える/見えないによって学び方は異なるのでしょうか?

白井:あるコンクールに出た時、審査員に、見えないヴァイオリニストの大先輩である和波孝禧(わなみ たかよし)先生がいらっしゃって、親は和波先生に僕のレッスンをお願いしました。でも、和波先生から、見えない同士だと、体の動きとかを確認できないから、基礎の部分は見える先生に教わったほうがいいとアドバイスをもらいました。それで、紹介していただいた見える先生に基礎を教えてもらいながら、年に1回ほど、和波先生にも見てもらう、というような二段構えで学びました。

―― 見える先生と見えない先生に教わるので、何か違いは感じましたか?

白井:たぶん見える同士だったら、動きや技術を目で見て真似て、その結果音が出て、その音がいいかどうかを後で判断することが多いと思います。でも僕らは逆で、音が頼りなんですよね。先生の音を真似るところから始める。音が近づいたら、結果としてちゃんとした演奏の仕方になる、みたいな。技術を磨いた結果、音が出るんじゃなくて、音が先にあって、その音を出すための技術を磨くプロセスになります。

世の中には、ものすごいテクニックを持っているのに、残念ながら音はそこまでよくない人もいるなかで、僕はテクニックはあまりなくて、技術的には拙いかもしれないけど、人に届く音を持っているんじゃないかなと思っています。

―― 高校までは盲学校で、大学から一般の大学に入学されたんですよね。周りの環境の変化は感じましたか?

白井:ガラッと変わって、本当に大変でした。僕は小学校の初めからずっと盲学校だったので、すごく狭い世界だったんですよね。人数も少ないし。そのなかではいろいろできるほうだったので、社会に出ても、ある程度なんとかなるんじゃないかと思っていました。でも実際には、全然世界が違った。

たとえば授業の出欠表に記入することもできない。教室で空いている席も探せない。僕は音大だったので、音楽の授業も、初見の楽譜を見ながら演奏するようなことが日常にありました。ぱっと渡されたものを、その場で演奏するのに、ついていかなきゃいけないのは本当に大変でしたね。

しかも、そういう環境にぽーんっていきなり入っちゃったので、周りの人に何をどう頼んでいいかも分からないし、周りの人も何をどう助けたりいいのか分からなくて、お互いに困っていたと思います。

そんなときに助けられたのが陸上部の繋がりでした。

―― 陸上部ですか?!

白井:もともとヴァイオリン以外でも、生きる道があるなら、そっちでもいいと思っていたので、いろんなことに挑戦していました。

体を動かすのが大好きだったので、中学生のときは視覚障害者のフロアバレーボールという競技をやっていましたし、高校からは大好きな野球をやろうと思っていました。ところが、ある日バレーボールのポールを片付けていた時に誤って倒してしまって、それを支えようとして大事な左手の中指を骨折してしまったんです。それで、進学予定だった高校の音楽科の先生から球技禁止令が出てしまい…。

でもどうしても体を動かしたかったので、陸上だったら指を使わないからって屁理屈をこねて(笑)、陸上部に入りました。そこから「立ち三段跳び」という競技をやり始めたら記録がどんどん伸びて、高校2年で国体に出て、国体の日本記録も作りました。

大阪での陸上大会に行ったときの写真。
トラックを走る大学生の白井さん(2003年)。

ーー す、すごい!ヴァイオリンだけじゃなくて、三段跳びも極めていらっしゃる…!

白井:大学でもそのまま継続して、パラリンピックを目指したいと思ったんですけど、立ち三段跳びは種目に入っていなくて、普通の走る三段跳びに転向しないといけず…。でも普通の三段跳びは、見えなくてやるにはハードルが多すぎるんです。音大だったので陸上部もなく、もう継続するのは無理かなと思っていました。

そうしたら、音大にいた体育の教授が「一緒にやろう」と言ってくれて、陸上部を新設することになったんです。体づくりや気分転換、シェイプアップなどのために走る合間に、僕が走ったり跳んだりするのを手伝ってくれる人を募集しました。

結果、いろんな科の人が集まってくれて、世界選手権に出ることもできましたし、それでできた友達が、同じ授業をとってくれたり、一緒に次の授業に移動してくれたり、ご飯に誘ってくれたりするようになりました。陸上部なしで、ヴァイオリンだけやっていたら、たぶん潰れていたなって思いますよ。

―― 人間関係を育むうえでも、陸上は必要だったんですね。

白井:いろんな人に手助けしてもらって、いろんな関わりも増えていくなかで、音大で勉強していたクラシックの道を辞めることもできました。クラシックって、どこまでいっても「学問」なんですよね、勉強。僕には窮屈になっちゃったんです。もっと僕は生きるための、生きていくための音楽をやりたい。

それで教職をとろうとしていたときに、あるご縁から、映画の挿入曲への参加を依頼してもらったんです。僕もポップスをやるのは初めてだったし、歌のアーティストさんも、ヴァイオリンを入れるのは初めてだったので、お互い1からすごく時間をかけてやりました。それがとても楽しくて。一緒にユニットを組んで、路上ライブなんかもやるようになりました。

合わせてオリジナル曲の作曲も始めました。音大にいた頃は「曲作り」っていうと、オーケストラの楽曲みたいなものでの、全部のパートを自分で書き上げないといけないイメージが強かったんです。でも、ポップスってメロディーが書けたら曲を書いたことになるんですよね(笑)。あとは分業でアレンジをお任せすることもできる。

とはいえ僕は、自分で自分の世界は築きたい性分なので、楽譜を書けない代わりに、音の打ち込みを覚えて、イメージ曲を渡して、演奏してもらうようになりました。

笑いながら話す白井さん

―― そうして今の白井さんに至っているわけですね。ちなみにずっと盲学校に通っていたら、周りも見えない人たちですよね。どういう段階で見えないことを「障害」だと感じるようになったのでしょう?

白井:それは逆かもしれないです。僕が幼少時代に住んでいたのはものすごい田舎だったので、5歳で初めて盲学校の幼稚部に行くまでは、世界で目が見えないのは僕だけだと思っていたんですよね。周りに他にいなかったので。幼稚部に行って初めて、こんなに同じような人がいるんだってことに逆にすごくびっくりしました。

一方で、地元では弟たちがやっていることが「普通」だと思っていたので、一緒に自転車を乗り回したり、野山を駆け回ったりしていました。だから盲学校に入ってからは違う世界でしたね。だんだんそちらに自分も染まっていって、そのなかではいろいろできるほうだったんですけど、高校ぐらいから見える人の友達とかが少しずつ増えていく中で、違いはどんどん感じるようになっていきました。

―― それはどういう違いを感じるんでしょう?

白井:会話一つとっても違います。共通の話題がなかったり、これまで共通に伝わっていたことが伝わらなくなったり。 あと、一番違いを意識するのは恋愛の時だと思います。

―― なるほど!?

白井:学校とか仕事とかはなんやかや何とかなると思うんです。助けてもらえますし。でも恋愛だけは助けてもらえない。自分でどれだけできるかをアピールしないといけないじゃないですか。そうすると見える人のほうが絶対的にできることが多いんですよね。

たとえばデートの場所も、こういう場所に連れて行きたいと思っても、僕らが道案内することはできなくて、相手に連れて行ってもらわないといけません。旅行となったら、さらに大変です。プレゼントを買おうと思っても、選ぶのが難しかったりします。

そんななか、そういう対応が上手で、見えてかっこいい男の人が出てきたら、とられちゃうんですよ、絶対(笑)。そこで戦うのは無理なので、自分の良さを出していくことを考えます。たとえば人より話を聞くことはできるし、声には敏感なので、声って結構ごまかしがきかないから、そういう相手の内面的なところを把握したり、手助けしたりすることはできるかなと思っています。

―― 恋愛トークを深掘りして聴き続けたいところではありますが(笑)そろそろ今回の映画のお話も聞いていきたいと思います。もともと白井さんはどのようにチュプキもしくは平塚さんと出会ったのでしょう?

白井:僕が現在も続けている埼玉のコミュニティFMの番組に、チュプキができたばかりの頃、平塚さんにゲストで来ていただいたのが”初めまして”でした。

その後チュプキで、ヴァイオリンと関連する映画を上映する時、アフタートークで演奏をさせてもらったり、彩木香里さんとの公演イベントをやらせてもらったりもしてきました。そうしたつながりの中で今回、初めて音声ガイドモニターの話が来たんです。

彩木香里さん主宰「ものがたりグループ☆ポランの会」と白井さんとで
朗読とバイオリンのライブセッションをチュプキで上演した時の写真。

―― 白井さんはそもそも音声ガイドをあまり使わない派らしいですね。

白井:そうなんです。僕は何でもかんでも音声ガイドをつけて聞きたいとは思わなくて。最初は素で見て、そのあと情報をフォローするために音声ガイドを使えたらいいかなっていう感覚です。

ただ、チュプキは「選択ができる」ところがいいですよね。聞きたい人は聞ける。要らない人は使わなくていい。使う時と使わない時で2回観に行ってもいい。選択肢が増えるのはいいことだなと思っています。

―― 白井さんは今回の映画の前までは、聞こえない人との関わりはありましたか?

白井:出会うことはあったんですけど、今回の映画や、その後彩木さんと挑戦した公演の2つが一番大きいですかね。

―― 今回の映画や彩木さんとの公演を通じて、聞こえない人との距離感は変わりましたか?

白井:視覚障害と聴覚障害はメジャーな障害で、お互いアクセシビリティやユニバーサルデザインなどを進歩させてきた歴史があると思います。でもそれが平行線で、交わることがなかったんですよね。距離感がやっぱりすごくあったなかで、今回繋がって、知ることができてよかったなと思っています。

一方で一番びっくりしたのは、音声ガイドの内容もバリアフリー字幕にしてほしいと言われたことでした。見えないと分からない情報をフォローするのが音声ガイドなので、それを再び文字に起こさなくても、映像を観たらわかるはずだから、むしろじゃまになるんじゃないかと思ったんですよね。

でも、聞こえない人から作品を観た後に「見えない人がこういうことを聞きながら見ているのが分かってよかった」って言われて、なるほどって思いました。

僕らは見えて聞こえる人に対して、「ぜひ一回音声ガイドを聞きながら映画を観てみてよ」って言うことは結構あるんですよね。なのに、聴覚障害者の人に対しては「聴覚障害者用の字幕があるんだから、音声ガイドまでは要らないんじゃない?」って思っちゃっていたわけです。

僕ら障害を持っている人たち自身が、無意識に障害に対する固定したラベルを貼ってしまうことが、あるのかもしれないと思いましたし、今回それに気づいて取り払えたことはよかったなと思います。

ただ、じゃあこれで一生、視覚障害者と聴覚障害者が当たり前に一緒にやっていけるかっていったら、そんなことはなくて、まだまだお互い知らなきゃいけないこともあるだろうし、お互いに決して理解しきれないブラックホールみたいな部分もあると思います。 だから全部をわかることが最終目標じゃなくていい。これまでは「ちょっとしか分からないならやらなくていいんじゃない?」って触れられてこなかったところに、ちょっとでも触れてみようとすること、そして、ちょっとだけでも感じ合えることが、大事なのかなと思います。

―― これから映画をご覧になる方に、どんなふうに観てもらいたいですか?

白井:まっさらな状態で観てほしいですね。情報量も多いので、すべてをちゃんと観ようと思ったら、酔っちゃうと思います。全部を丸ごと観ようとせずに、気づくところだけでいいし、何かを知ろうとか、学ぼうとか、正解を求めようと思って観ると、失敗すると思います(笑)。良し悪しではないので。まっさらな心で、ただ目の前にあるものを感じ取る時間にしてほしいなと思います。

正面を向いて微笑む白井さん

(Interview&Text:アーヤ藍)

白井さん、ありがとうございました!

ドキュメンタリー映画『こころの通訳者たち What a Wonderful World』は、2022年10月1日(土)よりシネマ・チュプキ・タバタにて先行公開、10月22日(土)より新宿K's cinemaほか全国順次公開します!

映画をご覧いただいたあとに、この記事を読み返していただくと、映画の裏話もさらにお楽しみいただけるのではないかと思います。 それでは、皆様のご来場をお待ちしております!

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